RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

衆院選挙が近いようだが日本は変わるのだろうか

小泉・竹中の構造改革路線が現在の格差社会を生んだなどと、バッシングも激しく感じます。だって格差社会のスタートは90年代初めのバブル崩壊と共に始まっていたのですから、原因を構造改革路線と言い切るには少しこじつけすぎじゃないのと考えちゃいます。一方鳩山総務相の更迭と西川社長の続投で、与野党入り乱れての国会での論争もこの先どうなるのやら。

元はと言えば官庁の外郭団体などに、郵貯の資金を審査も経ず無駄に流れていた官僚主導の組織から、国民が納得出来るような公平な形で民営化し、効率の高い小さな政府で無駄を無くそうというのが、民営化の発端ではなかったのか?。

脱官僚を掲げる民主党も政権交代後は西川社長を更迭すると表明し、民営化も見直すという、しかもマニフェストには児童手当の充実(中学生まで年31万円)や、高速道路の無料化など、サンデープロジェクトの田原総一朗と民主党・鳩山代表との対談を聞くと、原資の無いばらまきばかりが目に付きます。

民主党はあの年金記録問題の発端となった自治労が支持母体でもあります。コンピュータによるオンライン化反対や、データ入力45分・休憩15分と言ったような、あまりにも企業からしたら常識ハズレな労使の「覚書」を交わした労組で (叩かれたおかげでその「覚書」も訂正されたのでしょうが) このような事が二度と起こらないような組織としての改革はなされていません。

自民党は前回の選挙で、大きくなった政府の無駄遣いを止め、効率的な小さな政府にしていこうとして、国民に大きな支持を得たのではないのでしょうか。

でも平成21年度補正予算では過去最大の約14兆円を、充分な議論もなしに、ほぼばらまきに近い形で可決成立し、「国立メディア芸術総合センター」というマンガやアニメなどを展示する国営の展示施設を117億円かけて箱物を建設する事まで決まった。

やれやれ、今回の経済危機で自動車や家電メーカーの業績悪化が言われていますが、反対にAppleや任天堂などは好調に利益を生み出しています。その差は何?自社工場を持ち、垂直思考の物作りをしているか、自社では工場を持たず水平思考で物を作る「ファブレス」メーカーかの違いでしょうか。

官庁が音頭を取る護送船団方式の経済振興策ではなく、企業が活動しやすい環境を作り上げる事が求められているのではないのでしょうか。つまり企業に対して政府は積極的で包括的な経済振興策をとる「大きな政府」ではなく、企業の活動を妨げない「小さな政府」が求められているんだと思います。

市民である生活者に対してはある程度の保証は必要なのでしょうが、お役所で働く職員のためのマッサージチェアは必要ないと考えているんじゃありませんか、選挙が近いからと目に見える献金問題や、かんぽの宿の売却先に目くじらたて、紙面を大きく取って報道するよりも、その政党が本質としてどの様な未来を考えているのかを国民に知らせて欲しいと考えるのは私だけでしょうか。

次期政権を取る(であろう)と言われる民主党は、脱官僚の話は良いけれど、お役所がキチンと仕事を進める事が出来る組織改革を、支持母体である組合とのしがらみの中でどう進めていくのか、郵政民営化を見直すという事は大きな政府を考えているのかを聞いてみたい気がします。




あり得ない風景を見慣れてしまったのか

数年前までの新聞広告や駅貼りのポスターのメインビジュアルは、写真一つ取っても空間としての空きや、モデルの表情一つにとっても、カメラマンやデザイナーの気迫を感じる作品が多かったように感じる。

今のポスターなどの広告は作品と考えてはいないのか、ただの消費される情報でしかないのか、心にフックとなる記憶に残る広告が少ないのが残念ではある。

人間の思う通りにポーズを付け撮影出来ない動物や昆虫などは、イラストやキャラクターとしてビジュアルとして登場していたが、今では3DやCGで思うままにポーズを取れるし、どんな荒唐無稽なシュチエーションでもビジュアルが作れるしムービーにもなる。

しかもロケの現場に行っても天候に左右されず、光の具合も思うがまま、撮影のためのお天気待ちしていた頃と比べれば効率は驚くほど高いですね。



ブリジストン・レグノ

例えば写真にある数年前のブリジストン・レグノのポスターだが、友人のADの作品で制作の裏話も聞いた。ローマの街一区画を撮影用にキレイに掃除し、路上の車を全部どけ、撮影用に道路に水を撒き、建物に照明を入れてもらうなど一つの街を買い取るくらいの金と時間と労力が掛かった作品だが、商品コンセプトの洗練された都市と静粛性がワンビジュアルで表現された良い写真であり広告だと思う。

現在ではその頃に作った大がかりで金食い虫だったビジュアル作成の反動なのか、有り物のレンタル画像を使ったものや、見る者をねじ伏せるようなカメラマンの拘りのような、力強いビジュアルは見あたらない。

しかしコンシュマーと言われる人たちに、毎食毎食ファミレスやコンビニ弁当のような、そこそこ美味しくいつでも食べられ便利でお手軽な広告ばかりで飽きられないのだろうか。

いつも食べるのは牛丼でもファーストフードでも、ナショナルチェーンが作る効率的に量産された食事でも、たまには丁寧に作られた、旬の食材を使った心に残る食事をしたいと考えるのが人情ではないだろうか。

多くの広告を出稿する企業は、次年度の年間予算を組む時に広告・PR計画など立案するのだろうが、低予算で見た瞬間に忘れ去られる広告ばかりではなく、中には見る者の心にグサリと刺さる、くさびのような強い表現のビジュアルを入れるようお願いしたい。

制作費は効率良くは作れないだろうから、チェーン店化したお店で食べるよりも多少割高ではあると思うが、たまに食べるととても美味しく感じられると思いますよ。




鬼十則+三

日本一の広告代理店「電通」の四代目社長:吉田秀雄が戦後間もない1951年に作った社員の行動規範で、一部では伝説扱いになっていますが、友人の営業に聞くと「規範としてはもう使っていないけど、個人的にそう考えている人も未だいる」と。

モーレツを美徳としていた一昔ならまだしも、と言う所でしょうが常に上を目差す企業の中でも特に売上に直接影響する営業関係の仕事に着いている人には、考えさせられる規範ではないでしょうか。

また鬼十則ほど知られてはいませんが、同じく吉田秀雄による「責任三箇条」も作られていました。



鬼十則
1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。


責任三箇条
1. 命令・復命・連絡・報告は、その結果を確認しその効果を把握するまではこれをなした者の責任である。その限度内に於ける責任は断じて回避出来ない。
2. 一を聞いて十を知り、これを行う叡智と才能がないならば、一を聞いて一を完全に行う注意力と責任感を持たねばならぬ。一を聞いて十を誤る如き者は百害あって一利ない。正に組織活動の癌である。削除せらるべきである。
3. 我々にとっては、形式的な責任論はもはや一片の価値もない。我々の仕事は突けば血を噴くのだ。我々はその日その日に生命をかけている。


吉田秀雄が社長就任の5年後に作り上げた軍隊並みに厳しい行動規範ですが、製造業での工場で何か物を作ると言った仕事というよりは、マネージメントをする側の『仕事という物』を上手く表現してあると同時に、軍隊というトップダウンでの指示系統による縦の繋がりよりも、一人ひとりの社員が企業理念を元に考え、責任を持って行動すると言った並列思考的な先進性に感心させられます。

兵隊という数という考え方ではなく、グリーンベレーのように少数精鋭な特殊部隊がミッションをクリアすると言った方が近いのでしょうか。

確かに今の時代にこれほどのモーレツな仕事の仕方は合わないとも思いますが、仮に数十人いる社員一人ひとりがこの規範を守り、仕事をしたらスゴイ結果になるのだろうと、現在の電通と言う企業を見ると考えさせられます。

もし、現在同じようにこのような行動規範を作るとしたら、私ならば後3項目増やすでしょうね。

1. Webを使い、積極的に情報をコントロールしろ。
2. 顧客と社会に対して誠実であれ、嘘は絶対につくな。ついてもすぐにばれる。
3. 仕事を楽しめ。




Graphic Designerの未来は?:2

職業グラフィック・デザイナーとして生息する場所は広告代理店の制作部や、デザインプロダクション、独立したデザイン事務所など、それを専門とする企業に集まり仕事をしています。

このような専門領域に特化した職業で区切られた企業は、職人などが集まるギルドなどの専門知識を持った集団で、機材や材料などを集中させる事で作業効率を上げる事が出来ました。数年前までは版下を作る技術、写植を指定し文字を組む技術、など沢山の専門技術の知識が必要とされていました。

しかしコモディティー化が進んだ現在は専門知識がなくてもPCのスキルさえあれば、専門的な知識を持つ者から教わらなくてもキーボードさえ打てれば印刷原稿を作る事が出来ます。

この事から専門職業・職域で集まって作業する事で作業効率を上げるとは言えなくなってきました。

必要な時に必要なだけ必要な場所に。On Demandの考え方ですね、グラフィックデザイナーも代理店やプロダクションなど、規模も大きく多くのデザイナーがいる企業では、瞬発力の必要な規模の大きや実験的な仕事、また多ページを一度に作り上げる仕事ではフォーマットを作るマスターデザイナーと、フォーマットに合わせ写真や文字を入れ込むオペレーターが居れば済んでしまう事になりそうです。ってもうなっているのかな?。

年に数度原稿を作るような規模の企業では、外注に出す仕事とスキルを持った派遣社員が社内で内製する仕事の2つに別れるのではないでしょうか、小さな個人事務所のようなデザイン事務所(ウチなんかもそうですが)は、数少ない「外注に出す仕事」を取るために専門的な営業力が必要になるでしょう。

デザイナーという職業は以前のようにカタカナ職業としてもて囃される、流行のような職業ではありません。デザインとは何を指す言葉なのでしょうか、一言で言ってしまえば「目的を持つ物の形態を、機能や生産工程などを考えて構想すること」です。

元々グラフィックデザイナーは、印刷物や平面装飾物を用いて社会とコミュニケーションする事を目的としています。コモディティー化が進んで起きた事とは、専門的な知識をPCに代行させる事で、普遍化させ隣の職域との垣根を無くす事でもあります。

平面グラフィックの枠をなくし、コミュニケーションという目的の手段として映像を使ったり、Webを使ったりして構想することが求められてきているのではないでしょうか。

同じようにグラフィックデザイナーと仕事を行うクリエイティブディレクターやアートディレクターは、マーケティングやブランディングからの視点も踏まえた、企業戦略まで突っこんだ答えを求められてきているのではないかと感じます。

社会環境がドラスティックに変化する中、職域を表していた言葉も変化してきていますね、グラフィックデザイナー・Webデザイナー・映像デザイナー達は「コミュニケーションデザイナー」と言われるようになるような気がします。




さらに先に行く画像制作のためのソフトか。

Autodesk MAYA

先日「あり得ない風景を見慣れてしまったのか」と言うエントリーで、CG画像と実際に撮影した画像とのクォリティとの差が大きく、たまにはお金をかけて心に残るような力強い画像を使いましょう。と書きましたが、先日Autodeskと言うハリウッドの映画制作に多く使われているソフトメーカーの、3DCG セミナーに行き、これから我々の業界が辿るであろう未来の制作の姿が見えたように感じます。

私が知っていた3DCGソフトは、クラッシック環境の頃からSTRATAなんてソフトが使われ、購入もしてみましたが、使うオペレーターがヘボなのと、周りに使いこなす人が居なかった事もあり、市販のエデュケーションブックを片手にチュートリアルをこなしてみても、作業量の多さと最終的な画像に書き出すレンダリング時間の多さから、レギュラーの仕事にも差し支えるし、上がった画像もいかにもCGと言う、どちらかというと稚拙な仕上がりだったため、それ以上スキルを上げる事もせずに結局は宝の持ち腐れに。

しかし先日のセミナーでは3DCGでの制作の流れが、メーカーの商品企画の段階からCADやCGを多用して行われている事から、そのデーターを有効に利用し、街やインテリアのCGの中に置く事で時間と費用を大幅に削減する事が可能になったとの事。

だいたい新商品なんて広告写真を撮影するのに、製品が形になっていない事は結構ざらにあり、大きなスタジオ内に部屋や街を再現した立込を何日も無駄にする事も珍しくはなかった。

メーカー側はモックアップの制作や、撮影に関する立込の費用やスタジオ代、カメラマンやスタッフの時間と費用など、トータルでの高効率化の恩恵を受けられ、制作側は計画的な時間と費用を配分出来、従来の制作ワークの他にもメーカーとの協力で環境別の製品シミュレーションなど、仕事領域の拡大が見込めるとの事、何だか話だけではよい事だらけです。

業界の再編成がありそうですね、まず物撮りのカメラマンにスタジオと、立込の大工さんが失業しそうです。その替わりCGのための小物のデーター作成や、ライティングノウハウを持ったカメラマンがCGデーターのライティング作業を行ったり、街や建物の壁や建具のマテリアルデーターを、現在のレンタルフォトエージェンシーのように切り売りで販売する会社が出てきそうです。

現段階でこのような仕事の流れは、けして普遍的ではないにしろ数年後には当たり前に感じているかもしれません。

私が15年前に印刷原稿の制作方法が版下から、イラストレーターのデーターを(まだPCの性能も余り高くなく、実画像をハンドリング出来る物でなかった)出力センターに印画紙出力を依頼し、台紙に貼った物にトレペに色指定して入稿していた頃、組み版としてレイアウトし、データ入稿していたクォークエクスプレスを見た時と同じような立ち位置にあるように感じます。

あの頃のクォークのバージョンは3だったと思いますが、確か値段は高価で4〜50万円した記憶があり、3DCGソフトの現在の価格もそれに近い金額だとは伺いましたが、その頃のDTPソフトがそうだったように、プラグインなどを揃えるとかなりの金額になりそうですね。




本能でブランディングを嗅ぎ分けている感じです

Gigazineの7/14の記事に【「小悪魔ageha」編集長にインタビュー、世の中には「かわいい」か「かわいくない」の2つしか無い】という中條寿子編集長へのインタビュー記事が載っていました。

最近は雑誌は余り読みませんし、ましてや女性誌に関しては性差の違いか、求める物の違いからか、銀行や病院の待合室に置いてあっても手に取る事はあまりなかったので、この「小悪魔ageha」という雑誌はせいぜい書店やコンビニで表紙を見た程度でした。

しかし、この編集長へのインタビュー記事を読んでみて、頭でっかちにブランディングを語る人たちの言葉と比べ、非常にシンプルで解りやすく、例えば本能で辿る道を選んでいるような明快さでブランディングを語っているようで、力強ささえ感じました。

実際に本としてはどうなのかと言えば、日本の代表的な女性誌のCanCamの34万6466部より下で、non・noの25万8648部より上の、公称30万部の発行部数を誇る雑誌だそうです。

詳しい詳細は実際に記事を読んでいただくとして、インタビューの中で気になった所をあげてみます。



書店売りしかない雑誌などは本屋さんに行って、すごく面白そうに感じた雑誌は買ってしまいますね。でも、最近は「これは伝説になるぞ、今のうちに買っておかないと!」って思うようなものはないですね。以前は伝説になりそうだなって思うものが結構ありましたけど。

伝説と思うものって、やってはいけないものだったり、完全に編集者が職人として作っているものが多いので、面白いものが多いんです。その代わりにクレームが多かったり広告が入らなかったりして、本として成り立たなくなるような場合が多いようです。だからなのか、最近ではそういった雑誌がなくなりましたね。



基本的に雑誌ってカルチャーやオピニオンと言われるような、興味を感じる・共感出来ると言った、読んでくれる読者をグイグイ引っ張っていくようなパワーが必要なんじゃないでしょうか、少なくとも十数年前のサブカルのリーダーと言われた雑誌にはそれがあったような気がします。

確かに以前と比べ流通している情報量は比べものにならないほど増えていて、その中でどう遊んで良いのか解らなくなっているような所があり、マーケティングとかマネージメントという点から効率化や、企業の窓口としてペイパブと言った形で本を切り売りし、買ってくれる読者の求める物が見えなくなっているのではないかと感じます。

これは雑誌を作る事だけに限った事ではなく、私たちが居る広告業界にしても、最近余り面白い広告が少なくなったと感じる所から、同じ所に原因があるのではないかと感じます。

また、以前このブログにエントリーした「選ばれるために」で引用した、作家の村上春樹さんが本の中で、お店の経営と作家としての活動の基本的なポリシーは変わらないとした文章と同じような事も言われています。



ageha:基本的には本当に読者が求めている事とか、共感できる事しか載せないのですが、得てしてそれって批判を産むこともあると思うんですよ。例えば深夜放送でやっていたことをゴールデンですると受け入れてもらえないみたいな。でも、わたしたちは自分たちの為に雑誌をつくっているのであって、正直agehaが狙っていない層の人に読んでもらわなくてもいいと思っているんです。けど、今はあまりにも広がりすぎていて、いろんな人が読んでいるじゃないですか。だから、わたしたちが感じた事を共感できない人とか面白半分で見ている人、「このメイクが変」だとか「この頭は何だ」という気持ちで見ている人からすると、不謹慎に見えたのかもしれません。

Gigazine:ここまでのインタビューで「読者目線」「わたしたちの求めているもの」という話しから今の話を聞くとなるほどと思いますね。

ageha:でも、それが分からない人にはわかってもらえなくてもいいと思っています。



この引用文はインタビューの最後の方に、雑誌で「飯島愛追悼ページ」について説明した文章ですが、全ての人に向かっていい顔は出来ない、私たちの求めている物はこれなんだ。と、雑誌が読者から求められている物を作り続け、「5万部にしてでもいいから、みんなで共感できるものをわたしは作りたいと思っています。」と締めくくっています。

しかしまさに手を挙げ表明するのがブランディングと言う事を、シンプルで的確に表現し、成功している事例だと感じます。




けちんぼからのお願い。

タイトルを「けちんぼからの〜」と書きましたが、必要な所ではちゃんとお金を使っています(つもり)。

例えば仕事で使うPCなどは、作るデータ一つひとつの量が年々桁違いに大きくなっていますので、ソフトウェアのバージョンアップに伴って演算処理の早い機種に入れ替えたり、クライアントの意向でムービーが必要であれば編集も可能な機種になど、必要だから新しい物へと買い換えていますが、基本的に機械類は大切に扱う物持ちの良い方だと感じています。

そのように製品の持つ機能以上に、作業環境の変化や社会が求める新しい機能が更新され、製品の機能革新を求められる製品がある一方で、限られた作業の効率化のために使われる製品、例えばコーヒー豆を挽くミルや、ミキサー、フードプロセッサー、シェーバーなどなど、言い換えれば成熟した作業に限定された製品とでも言いましょうか。

使用環境で大きなイノベーションが起きにくい製品でもあり、製品を購入するのも新規よりも壊れて?使えなくなっての買い換えが多い分類の物ではないかと感じます。このような付加価値よりも基本性能が高い家電製品は、日本メーカーよりも欧州メーカーの方が頑丈で壊れにくい上に、壊れた場合も簡単にパーツ交換出来る、言ってみれば長く使える製品が多いように感じます。

けちんぼの証明として現在使っているシェーバーですが、オランダのP社の製品を使っていますが、こちらは既に20年目です。購入する時に毎日使う場所は洗面所に限定されるので、充電式よりも交流式の方が充電池の劣化などがない分、長い間使えると考え購入した物ですが、まさかここまで使うとは思っても居ませんでした、だって壊れないんだもん。

もう一つは電動歯ブラシ、ブラシヘッドが動くドイツのB社の物ですが、7年前に充電池の劣化でリペア品と交換した意外使い続け、既に15年ほど使っています。リペア品とは言っても駆動部分と充電池はメーカーで確認しての出荷ですから、ほとんど新品の状態で、かかった金額は確か¥2,000代と非常にリーズナブル。

対して国産メーカーのP社のバリカンを使っていますが、8年前まで使っていた交流式の刃が欠け買い換えるのですが、その時は刃の交換で新しい機種を購入するのと同じくらいの金額を提示され、充電式しかないのでそれを購入しましたが、4年で充電池が使えなくなり交換で確か¥5,000ぐらいかけて交換しましたが、つい最近再び充電不能となり、新しい製品と交換する事になりましたが、私にも一応学習能力はあります、その国産メーカーの製品は買いません、オランダのP社製になりました。

国産メーカーは、もっと購入してくれたカスタマーの事を考え、サービスを行うよう考え直した方がよいのではないのか、任天堂のように。人の手が掛かるから修理に高額な金額を提示するのはまぁ解る、ならばユーザー自身が消耗品の交換を前提とした製品作りは、作り手としてしかるべき筋ではないのだろうか。

修理に高額な金額を提示して新製品購入を促すのは、ユーザーよりも自社の利益を優先した考えと思えてしまいます。




何が悪いんだろうねぇ。

友人のブログへのトラックバックでもあるのですが、何だか社会全体が消化不良というか、未来への希望が見えない閉塞感の原因など、自分なりに理解しているモノを文章にしてみました。

私は社会に出てからグラフィックデザイナーという、どちらかというと職人のように自分の腕一本で仕事する職に就き、労働者側とか経営側とかの身の置き場というか、労働者の権利?などという物が良く理解出来ない生活をしてきました。

仕事が納められなきゃ何日でも徹夜もするし、休みなんて取れませんしね。無けりゃブラブラと遊んでいたり、美術館に行ったり、気になる映画を見たりもします。最近は仕事の量も質も変わってしまいましたので、呑気にブラブラなんて出来ませんけどね。

だいたい以前からクリエイティブの仕事。デザイナーなんてモノは、流行廃りを作る仕事ですので下克上は当たり前。業界で長く生きていこうと考えれば組織を作り上げるか、大先生になってしまうか、その両方になれない人はコツコツと小さな仕事を地道にやるのが生き残っていく手段だったんですが、社会の仕組みがドンドン変わってきていて、この数年はどれも当てはまらなくなっている気がします。

しかもグラフィックに限らず、友人のファッションデザイナーや、鞄袋物のデザイナーも口を揃えたように、その業界でこのまま生き残っていけないほど「仕事の流れが変わってきている」と言います。社会の「何?」が変わってしまって、水の流れが変わるように仕事の流れが変わってしまったのか。

社会は良い道具が出来てきたり、例えばエコロジーという概念から生活が変わったりと、国民が合理的と考えられる方向へ、などとドンドン変化していきます。
そんな流れは一応流行廃りを表現する職業ですから、社会の何がどう変化してきたかは見続けていますが、これと言った決定的な要因は見つかりません。やはり積もり積もった変化に対して閉塞感を持ちつつも、解決する方策を打ち出せないこの国に対し、産業界が反応せずに全体の仕事の量が変化してしまっているのでしょうか。

政治家なんて人たちは、その変化に対応する社会の仕組みを作ったり、修正する為の法案を作るのが仕事のはず。小泉さんが首相の頃は何かが変わるという期待感がありましたが、安倍首相・福田首相・麻生首相と続いた政権が「何かが変わる」といった期待感を、元の古い体質に戻してしまうと言う絶望感に近いモノを感じさせる政策から、このまま先に進んでいけないという閉塞感を感じるのだと思います。

テレビのバラエティー番組などで良くコメントしている森永卓郎さんは、小泉・竹中元大臣の政策は評価されていませんが、小泉さんの政策としては「無駄な国の仕事を減らし、小さな政府にしよう」だったはずで、そのために格差社会に陥ったが批判する論法です。
偶々なのか製造業にも派遣業法を適用した法案が通ったのが小泉さんの時代だったかもしれませんが、雇用格差の流れは小泉さんが首相になる10年前のバブル崩壊で、経営状況の悪くなった企業が、固定費の削減で簡単に首の切れない正社員の雇用を嫌い、パートや派遣社員に人材を求めたのが始まりだと考えます。

竹中さんにしても、誰も手を付けなかった不良債権に値段を付け、合理的な金額で最終的な不良債権処理をさせ、プライマリー・バランスを適正な形に戻そうとした手腕は評価されてしかるべきと考えます。

私は今でも国がやる必要のない無駄な仕事は、極力減らせよと考える方ですし、労働者の権利よりもちゃんと仕事しろよ。仕事は言われた事をただこなすだけなら人はいらないだろ、何を求められ何の仕事をしているのか頭で考えて仕事しろと。

プロですからね、そんな事を自問自答しながら仕事していますので、労働者の権利を声高に主張する組合というのも肌が合いません、その組合の恫喝に近いというか、反論されるとめんどくさいからなのか、ホイホイとマッサージチェアを買ってしまうお役所は解体されても当然です。

先の東京都議会選挙では、それまで第1党だった自民党が議席数を伸ばせず、民主党が大躍進しましたが、衆議院選挙でも同じような結果が出るのでしょう。でもどちらが勝ったにしても行き着く先のゴール・目的は、日本の産業が活性化し、国民が安心して暮らせる社会を作る事で、政権を取る事が目的ではない事を肝に銘じてもらいたいと思います。




基準て何?

人それぞれの考え方、判断基準、価値観で生活し暮らしている。子どもの頃の育てられた家庭環境も、通学した学校での教師や友人との付き合い、恋をし異性と人生の深い所で繫がり、場合によっては家庭を作る。

人一人ひとり同じ環境で育ってきた人はいないし、例え将来クローン技術が現実的なモノになり、人の複製が出来るようになったとしても、エヴァの綾波レイのように工場で人を生産するわけではないので、同じ性質を持った人間は出てくる事はないだろう。

そんな性格や価値観が違う人間が、人の作った製品やサービス、五感で感じる感覚的・芸術的なモノ、人その物だったり、集まる組織や企業などを、自分の視点・基準で良い悪いと判断しています。しかし人って上手い事出来ているようで、順列を決めた上で許容出来る範囲を変化させ、自分と付き合っているのではないでしょうか。

重さや長さに基準器があるように、自分が物や人を評価する時には必ず自分の物差しを基準に、相手の大きさを測ります。車やバイクと言った製品ならば、自分が今までに乗った事のある物と比較して新しい製品を評価します。これなどは相対的評価でしか無く、ただの重さや大きさ、スピードと言った絶対的な数字だけでは、乗り心地や快適性、気持ちよさなどは伝わりません。

でも自分の生活状況はどう感じるのかは、絶対的でも相対的でもなく主観的な評価基準で判断します。主観的ですからもう好きか嫌いの判断ですね、昨日の新聞の記事に「イライラする」若者60%超える…国民性調査とあり、調査をした統計数理研究所のサイトに詳しい調査結果がありましたので、企業内でも企画業務をされている方は国民性にどの様な変化があるのか、ご一読される事をお勧めします。



日本経済への評価 悲観的に展望する意見の推移

調査結果の中でも、1 低迷を続ける「日本経済への評価」での'93年から'98年の意識の変化は大きく、生活水準や社会的な満足度の相対的な流れをみると、この10年間は低迷を続けており、図2:社会の将来を悲観的に展望する意見の推移を見ると「人々の生活は貧しく」の伸びが顕著ですね。



政治をめぐる意識の変化

5 選挙を通じた意思表明への志向を見ると、5年前と調査をした2008年とでは、政治に寄せる関心がものすごく増えているのが判ります、今までの感覚では社会生活にさほど不満がなかったからか、政治にも余り関心がなかったのが、不満が大きくなり、その解消のために政治に興味が出てきたのでしょうか、社会生活に大きな不満を抱える発展途上国の投票率が高いのと同じなのでしょうか、政治的には日本も発展途上国の仲間入り?。

国民意識を数量的に調査した結果でしょうが、この5年間の間に随分と大きな意識の変化があって、その国民意識を首相のクビをすげ替えるだけで元に戻せると考えていたとしたら、やれやれ、政治家家業とは、なんてお気楽な家業なんだろう。

今年2月にエントリーした私のブログ「変えていくのは大変だけれども」で、橋下大阪府知事の就任一年を職員が評価した記事を見ると、肯定した意見は具体的な事を評価しているのに比べ、否定的な意見は具体的な意見はなく、主観論に終始していて全く説得力がない。同じように小泉元首相と竹中元金融大臣のバッシングがあるが、どの意見をみても主観的な意見ばかりで具体的な批評はなく、説得力が感じられない。




情報流通に変化があるのだから

「メッセージを伝えるために。」でも書いたのだが、人と人、人と社会のコミュニケーションで流通する情報量が、それまでの常識からは考えられないほどの量で増え、しかもその増えている情報のほとんどが、インターネットをメディアとして利用したWebコミュニケーションだと考えると、現実の社会の他にWeb と言うもう一つの社会が出現したと考えられる。

なぜこのように短期間で圧倒的な量が普及したかは、やはり簡単で便利だからだろう。だから企業のPRを始め、SNSと言ったコミュニティーや、ブログなどのプライベートメディアなど、誰でもが情報を発信し共有出来る。

これをみんなに知って欲しいと誰彼構わず情報を送りつけると、SPAMになるのは当たり前、そこに欲しい有益な情報があればサーチエンジンを使って情報を必要とする人がアクセスする。

今日7月21日の午前中、閣議決定で衆議院の解散が決まった。Wikipediaで公職選挙法について見てみると、『公示日から選挙日が終了するまでの間、候補者の名前の入った選挙運動(投票依頼)目的の文書図画については、選挙管理委員会が発行するシール又はハンコのついた一定枚数の文書図画しか発行できない。総務省はWEBページ、ブログ、電子メールも「文書図画にあたる」と解釈し、なおかつ、WEBの更新については新しい部分だけでなく過去のものも一体のものとして頒布・掲示したことにあたると解しているため、同省は「候補者は選挙期間中Webサイトを更新できない」という立場をとっている。』とある。

全ての国民が利用していない、いわゆるネット弱者へ配慮しての事なのだろうが、先日の『基準て何?』のエントリーに書いた統計数理研究所の集計結果には、 20〜40才代で「自宅PCでインターネット使うか」の調査では68%が使うと答えている。もちろんインターネットを使うのはPCだけではなく、若い世代は携帯からの利用を含めれば、ほぼ全員がアクセス出来ると考えても良いかもしれない。

決められた時間だけに政見放送を視聴し、立候補者の意見を聞くのが果たして平等な行為なのだろうか、むしろ聞きたい時に聴きたい人間がアクセスして、立候補者の考え方をしっかりと聞く方が平等な行為といえないのだろうか。

政治家に対する献金にしても、個人献金が習慣となっていない日本では、企業や団体に頼らなければならないのだろうが、PayPalなどWebでの決済を使う方法や、政党や個人が考えるマニフェストを印刷製本し、ISBNさえ取ってしまえばAmazonで書籍として購入する事も出来る。購入代金の○%は献金として扱うなどの明細を書いておけば、個人からの献金も敷居が下がるのではないだろうか。

現実的に今年7月には、Googleがアメリカの大統領選で選挙関連情報を解りやすく提供するプロジェクト「Googleモデレーター」の日本版「Google 未来のための Q&A」が始まったし、数年前からYahoo!のカテゴリーには「みんなの政治」が加わり、ポータルサイトにて意見の集約も始まっている。まだ実験段階かもしれませんが、これが拡がり各立候補者の考え方が良く理解出来るようになれば、国のためにも議員さんのためにも、何より国民のために良い結果が出ると考えます。

政治をめぐる意識の変化

この10年以上の衆院総選挙での得票率を見ると、'96 第41回 小選挙区59.65% 比例代表59.62% '00 第42回 小選挙区64.45% 比例代表62.49% '03 第43回 小選挙区59.86% 比例代表59.81% '05 第44回小選挙区67.51% 比例代表67.46% 因みに前回第44回の選挙は、郵政民営化を争点にした選挙で、自由民主党が大勝した選挙、国政選挙最高の投票率でしたが、先に出した統計数理研究所の国民性調査:5 選挙を通じた意思表明への志向では、前回の2003年の調査より、「不満なら選挙で考慮」が約10%、「何をおいても投票」が約5%向上していますので、今回の第45回衆議院総選挙は最高投票率を更新するかもしれません。




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