RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

雑誌はどこに向かっていくのか

そもそも書籍という物は、情報を手に入れるため、知的好奇心を満足させてくれるための対価として、お金を払って購入する物だろう。

少し前までは自分のライフスタイルを確立するため、その道のオピニオンリーダーの発表する物に憧れ、定期的に購入することもあった。

反対に企業側から、売りたいがための媒体の一つとして、成り立つ雑誌があるのも先刻承知だ。

会社の仕事として、職業的にモデルさんのポーズや背景の使い方、打合せでカメラマンやクライアントに分かりやすいよう、雑誌を切り抜くために定期購読していたこともあった。

ダイビングやバイク、車といった自分の趣味を楽しむために購読していた雑誌もあるが、現在は一冊もない。

今朝の新聞の広告に、ファッションリーダー的な雑誌として、もて囃された雑誌の広告が載っており、タイトルがこれから伸びて行くと考えられる「農業」の特集だったので購入してみた。

読んでみた結果として、まだこんな事やってるんだ。
そもそも農業なんて、食を通して生を語ることに等しいのに、有名ADを登場させ、流行のスタイルを語るように、今農業がナウイョ、格好いいでしょと、農業関連の物を売らんかなのマーケティングと、表層的に飾ることだけを伝えるだけの内容が、非常に腹立たしく、浅はかで薄っぺらなものに感じた。

記事の中に売らんかなの表現があるだけで、胡散臭さが感じられる。
ユーザーターゲットとしてM1・M2あたりの、収入も多い正社員あたりがそうなのであろうが、彼らはこの雑誌を見て農業に対しての夢を見るのであろうか。

文字と写真で情報を伝える雑誌社が、生き残っていくためにどのような紙面作りにしていくべきかの議論は当然されているのだろうが、読者に対する作り手の責任はないのだろうか。

自分で美味しい物を作って食べるためには、一から作った方が美味しい物が世の中には沢山ある。
その究極として素材といえる農産物を自分で作る贅沢があるが、自然相手で生易しいことではない。
お店で農産物を買う今の生活から比べると、とても不便なことである。
農業をするということは「食のおいしさ・安全」と「便利さ」とを天秤にかけ、不便なことを選ぶことである。

けしてファッション雑誌は農業を語るなと言っているのではない。
そんな根源的なことを忘れ、ジャケットと同じスタンスで農業を語る雑誌に、雑誌廃刊という未来を感じた。
本来雑誌が持っていたオピニオンリーダーとして、同じ農業を題材にしても、ファッション誌が読者に伝えるべき方法が他にあるだろうと。




人類のシナリオ 1

人間の食べるもの、米とか麦とか豚とか牛とか・・・、豚や牛の飼料も麦や大豆、トウモロコシなど農作物から出来ていますので、農地と水が必要です。
農地や肥料・農作物の改良、で現在よりも収穫率がもう少しだけ上げられると予想されていますが、地球上の水の総量から農業に回せる量を見ると、地球が養っていける人口は約78億人。
現在アメリカの国で食べている食事を世界中に振る舞おうとしたら、記憶では確か40億人だったかな?
日本と同じにすると、これまた確か50億人だったと思う。

現在というか2008年5月1日で世界人口は66億6000万人、偉い先生達の予想では2025年に79億人にになると言う。

食べ物がない人たちは身近な自然を刈り取り、森を食べ尽くす。
ICPPの予測では、温暖化ガスの影響で、今世紀末までに平均気温が6.5℃上昇するとしている。
もちろん海水温度にも大きく影響するが、水温が2℃上がると水中の珊瑚は死滅し白化する。
大気中のCO2を取り込むのは、森と同じように珊瑚も大きな役割を果たしている。
森と珊瑚のCO2の吸収量が減るため、温暖化は加速する。

海水は温度が下がることで、水の質量が重くなり表層から深層へ流れ、上下に流れる海流になり、深海へ酸素を運ぶ。
水温4℃で質量が一番重くなるのだが、水温が上がることでこの海流が停まり、酸素が供給されずに海の生物は死滅し、水産物は取れなくなる。


エ〜、人類のこれからの予定をお知らせします。

残念ながら2025年から人類は滅亡のシナリオに入り、2050年頃に滅亡は確実となるでしょう。
私なんかはその頃には棺桶に片足突っこんでいるか、土の中にいる頃でしょうから、気楽な物ですが、心残りがあるとすれば自分の子供たちに手渡せる未来を、環境を残してあげられなかったこと。

残念です。

言っておくけど、これはフィクションではありません。
成長の限界とか、色々とコラムにも書きましたが、研究者達にもまだまだ色々な説があり、世界の季候は寒冷化のサイクルに入った、との報告もあります。
メディアでも数字を上げられないのでしょうが、現在約40年前に書かれた「成長の限界」に近い地球環境になっていることから、何もしないとこのシナリオ通りに進むだろうと。

シナリオの変更を希望する方は、今すぐ循環型社会へ積極的にスイッチしましょう。
現在我が家で暖房は15℃まで、事務所では点けませんので、隣の○野くんは恨めしい目で人の顔を見ています。

『クリーンなエネルギー』だとか、『エコ』だとか、言う奴バッカじゃないのなど、現在の地球の状況を知らずに脳天気でお気楽なあなた達、少しは心配したら、自分の子どものためにも。




人類のシナリオ 2

前回の話で終わっちゃうと、夢も希望もなくなんだか悲しくなるので、ぢゃどうすんのョ、であるが。
2025年のシナリオのスタートを伸ばすしかない。
希望はあるのか、と聞かれたら「可能性はある」、世界が協調すれば何とかなるかもしれないのである。
一応人類には、実際にオゾン層破壊を水際で引き戻した実績もある。

何が必要かと考えれば、やはり循環型エネルギー利用の現実化だろう、原子力は処理できない核廃棄物が出る限り現実的ではない。
現実的な物は太陽光と風力の二つ、現実的とは発電した電気に対するコスト。
理想を並べても、現在電力会社に支払う金額から大きくかけ離れていては、現実味のある話にはならない。
ただし両方ともデメリットはある、単純に考えても太陽光は夜は発電できない、風力も風がなければ発電できない。

それと効率の問題、現在の発電所のように大型プラントは必要なく、地域単位、個人単位で出来るだろう。
もちろん1種類で考える必要はなく、様々なデバイスの複合型を考えるべきで、現在すでに個人住宅向けのコ・ジェネレーションシステムが、東京ガスから発売されている。
要は水素自動車と同じ、スタックを使い天然ガスから電気に変換する装置で、余熱でお湯も沸く。

風力は、世界各地で盛んだが、日本では実は非常に効率が悪い。
風の向きが一定していないからなのであるが、企業が出資して事業として採算が合うのは今のところこれだけである。
採算が合うと言っても、補助金ありきではあるが、日本国内でこの事業を行うには、開発というイニシャルコストがかかりすぎ疑問である。
あるとすれば、海上で大規模なウインドファーム(以下WF)を運用することぐらいだろうか。
現在計画中の物は建設を急ぐためか、自治体の許認可が非常にゆるい。
通常この様なプラント建設には、環境アセスメントを作り、議論した後でないと建設できないのである。
その内に社会問題化するであろう。

現在の産業活動では、石油という化石燃料を念頭にした社会資本が沢山ある、新しいエネルギーと言ってもまた新にインフラを整備し直すのは現実的ではない。
海上での大規模なWFには大きなメリットがある、風力で発電した電力で、海水から水素を作りタンカーで運ぶ。
現在、経済産業省がすでに燃料電池自動車と水素ステーションの実用化を目指し、研究・活動を行っており、関東エリアには9つの水素ステーションが稼働中だ。
水素ステーションの中には、水から水素へと作り替える実証実験がもう始まっている。(水からだけではなく石油や天然ガスからも実証実験中)

人口爆発が起こりそうな(起こっている?)インドや、アフリカなどの地域での教育は出生率を上げないためにも各国の協力が必要だろう。

環境問題と一言で言っても、温暖化ガスの排出から、人口や食の問題など農業から水産業、教育・宗教・経済など非常に範囲が広い。
特に書かなかったけど、宗教と経済の問題は大きい。
近所の家で一月も早く梅の花が咲いたのをきっかけに、こんな所まで書いてしまった。

・・・少しずつではあるが、循環型社会に変化しつつある、カウントダウンの数字が停まってくれると良いのだが。




新しいエネルギー源

個人的なことですが、お酒好きです。
中でも赤ワインは年齢的にも飲んでいておいしく、蒸留酒に比べ体も楽な感じがします。
冬はまだ出しっぱなしでもかまわないのですが、夏場気温が高くなるとぬるいワインはやはりおいしくなく、だいぶ前になりますがワインセラーを購入しました。

ワインというものはなかなかデリケートな飲み物らしく、温度変化の少ない、しかもあまり振動があるとよろしくないものだそうです。
私が飲むのは1本1,000円程度のハウスワインばかりですから、あまり厳密に高機能なセラーは選ばずにいたのですが、いろいろと比較検討のためにカタログなど集めました。

中でも当時ナショナル(現Panasonic)から出ていた高級ワインセラーが気になる存在でした、通常の冷蔵庫やセラーは庫内を冷やすために、冷媒をコンプレッサーで圧縮・解放の気化熱が熱を奪う方法で冷やしていましたが、このセラーはあまり聞いたことのない方式の「ペルチェ冷却方式」というものを採用していました。

これは冷却のために動くコンプレッサーの代わりに、ワインの嫌う振動が出ない「ペルチェ素子」という半導体素子を利用していました。

先日このペルチェ素子および関連製品で世界最大手の株式会社KELK(小松製作所100%出資子会社)が、このペルチェ効果による世界最高効率の熱発電モジュールを開発したそうです。

たとえば今まで熱を効率よく捨てるために、車などはエンジンのシリンダーやヘッドなど、空気や液体に熱を移動させることで冷却していました。

親会社は建設機械を扱う小松製作所ですから、ディーゼルエンジンの廃熱から発電する研究も、スタートしているそうです。

工場やゴミ焼却場などでも、今まで捨てるしかなく、邪魔者だった廃熱を使って電気を作ることが可能になり、捨てていたエネルギーが資源になります。

これからの社会のために循環型社会に移行する事が好ましいと言われ、地球資源を原料とせず、CO2を排出しないエネルギー生産は、今まで風力や太陽光発電に限られていました。

しかも太陽光発電よりも効率よく発電できる(ニュースリリースより)デバイスが誕生したことで、自然からのエネルギー供給源の選択肢が増えた事は、すばらしいことに思えます。




循環型社会で売るべき商品は

日本のお家芸であった製造業が在庫を抱え、物も売れずに四苦八苦している。
ついこの間までは大量生産、大量消費は美徳だった。
特に家電製品は壊れてしまっても、裏蓋さえない物が多くあり、壊れてしまったら次の新しい商品を買ってくれと、修理を前提に商品を作っていないようだ。
でも壊れてしまったからと、新しい製品を選ぶしかないのはブランドにとって、愛着は湧くのであろうか。
クルマでもバイクでもそうであるが、消耗品を取り替え、壊れたところを修理、または交換し、だんだんと自分仕様になっていった時に、そのメーカーやブランドに愛着が湧くのである。

我が家には子どもが三人おり、一番下は今年から中学生になる男の子である。
ご多分に漏れず携帯ゲーム機のファンであり、休日ともなればそれこそ朝から晩まで、いい加減にしなさいと言われてもゲームばかりしている。
使っているのは任天堂のDS、上のお兄ちゃんは同じDSのLightを使っているが、子どもの玩具である、大事に使えと言って聞く訳はない。
自転車のカゴに放り込んだまま、走り回り転んで放り出されたり、置いてあるのに気がつかず座ってしまったりと、道具としても限りなく乱雑に扱われている。

だから、メーカーに修理を依頼するのも、一度や二度では済んでいない、DSの前にはGBもそうであった。
任天堂がスゴイと感じるのは、メーカーとしてその製品作りが徹底している点なのかもしれない。
売っている製品は子どもが使うことを前提に設計・製造されている。
つまり遊んで壊すことを念頭に、修理しやすい製品を作っている。
けして一時期に大量に生産できるからと、修理のきかないノックダウンでは作らない、お客様に製品が出来るまで待っていただいている。
その替わり修理を依頼すれば完璧だ、ヒンジが折れ、液晶に傷が付き割れてしまっても修理してくれ、しかも子どもが貯めたお小遣いで支払えるよう、修理の上限が決まっているようだ。
今まで何度か修理に出してはいるが、¥5,000を越える金額を請求されることは、いまだに無い。

割れた外装を交換するなら、確か¥300ぐらいしかかからなかったし、壊れた機械に付いていたシールを丁寧に新しい外装に移植してくれていた。
こうゆう事をしてくれて愛着が湧かないわけがない、子どもよりも帰ってきた本体と金額を見て、感激するのは大人の方である。

輸出に依存していた製造業が、軒並み赤字に転落したニュースはまだ記憶に新しいが、円高になり今年3月期の決算を下方修正したにも係わらず、任天堂の営業利益は過去最高水準になるようである。
個人が使う道具として愛され、ブランドとして愛され、メーカーとして信頼されたからこその結果ではないのか。

クルマでも、レンタカーなどには愛着は湧かない、自分の物として長い間生活を共にするからこそ愛着が湧くのである。

大量生産・大量消費が美徳だった時代は過ぎ、物を大事に使い、捨てずにリサイクルを続ける循環型社会で求められる製品作りは、任天堂のように製品に愛着が湧き、ブランドとして愛されるメーカーではないだろうか。




会社の常識は、社会の非常識?

何を今更ではあるが、CSRやコンプライアンス、コーポレートガバナンスなどと言われていても、結局中で働く社員の意識に頼っているところも少なくない。

もちろん社員一人ひとりが働くにあたり、お客様に対しての心配りや、売るためのマーケティング、効率を考えていくのは当然だ。

商品を購入していただいたお客様に納品に伺う、限られた時間の中で、回らなければいけないお客様は沢山ある、コインパーキングを探し車を駐める時間的余裕がない。

お客様の近所の路上に停車させ、荷物を配達する。

当然のように毎日繰り返され、街中でもよく見る風景だ。

しかしクルマを運転している時は、事故を起こさないように対クルマに対しては非常に気を遣うが、意外なほど歩行者には気を遣わない。

市街地でよく見る片側一車線の幅員6mぐらいの道路+歩道があると、ほとんどの車両が走ってくる車両に気を遣い、他車に迷惑だからと歩道に乗り上げ停車する。

そもそも歩道とは歩行者と一部軽車両(自転車)のための道路であり、車を駐める場所ではない。

足の悪いお年寄りがカートを押しながら、子どもを乗せたお母さんがベビーカーを押しながら、最近は足の不自由なお年寄りが電動カートに乗る姿もよく見る。

弱者が道路を利用することを想像できていないのだ、歩道に乗り上げ駐車するドライバーに何で駐めていると聞くと、必ず「他のクルマにジャマになるから」と答える、歩行者にとって自分の車はジャマだとは考えられないのである。



道路や河川・海上など、人が自由に入っていける場所には、その方法により利用する人に義務と責任を負わせた上、認可するシステムです。

クルマを運転する人には、安全に運転する義務を負わされ、義務を負えなかった者に刑事罰、行政罰、民事罰などの責任を負わせることで免許を付与しています。

路上に障害物を認めた場合でも、安全に運転する義務が他車を運転するドライバーに負わされています、邪魔な障害物があれば、安全な運行をしなくとも良いとは一言もありません。

沢山の人が集まるところで、あなたの企業も関わり合う時に、社会的にどのような義務と責任を負わされているのか、一度考えた方が良いと思います。

会社の常識が、社会の非常識と言われる前に。




変えていくのは大変だけれども

先ずは昨年大阪府知事に就任され、財政再建に取り組み、2009年度には黒字転換への見通しがついた、橋下徹知事の手腕に、府民も大喜びでしょう。

何よりも一番大変だったのは、財政再建の方針や方法を策定するよりも、職員の抵抗を抑え、目的を達成することだった事は、たやすく想像できます。

カエルは冷たい水から熱い水へと環境を急に変えると、ビックリして飛び出すが、同じ環境で少しずつ水の温度が変わってもそのままじっとして動かず、やがて高くなりすぎた水温のために死んでしまう。

人間をカエルと比較するのもなんだけれど、人間は慣れ親しんだやり方を変えさせられることに、心理的抵抗を強く感じるという。

先月25日、毎日新聞が大阪府の課長・参事と言った役職の職員に、アンケートを取った記事が載った。

内容を見ると、府政の方向性が「良くなった」と回答したのは58%、一方「悪くなった」と否定的に答えたのは42%。

今まで財政再建という名目で、改革を進めていったが、否定的な意見を言う職員が多いのにはビックリしたが、アンケートにあった「意見や提言」を見てもその傾向が見て取れる。

新聞社サイトは、一ヶ月ほどで有料のアーカイブへ移行してしまうため、現在の記事を転記しておく。


橋下知事への意見については、提言や批判、称賛などさまざまな声が寄せられた。「意見や提言」では、「一過性で終わることなく、命がけで取り組んでいただきたい。知事がその姿勢であれば、『大阪・関西の地域主権』の確立に向け、命がけで取り組む覚悟である」(本庁・参事)など。一方、「批判」の声は「180万人の支持を受けたからと鼻高々で、府の権力をすべて握ったと錯覚しているようだ」(役職不明)▽ 「『思いつき』が『思い込み』になり、今や『思い上がり』になっている」(本庁・参事)▽「役人いじめの言動にはうんざり。全否定されているみたいです」(本庁・課長)など。「称賛」意見では「大改革に関係していることを幸せに感じる」(本庁・参事)▽「知事にメールをすることがあるが、すぐに返事が返ってくる。そのスピード感と熱心さには感服している」(本庁・参事)などがあった。
毎日新聞 2009年1月25日 東京朝刊


今まで政治の世界でも、改革に対して否定的な言葉が聞かれたが、あまり政策的な言葉は聞いたことがない、どちらかというと根拠のない感情的な意見が多い。

自治体でも、企業でも自らを変えていかなければいけないことは、理解できていても、今まで慣れ親しんだ方法を変えることに抵抗を感じ、改革の足を引っ張る。

「子供が自分のおもちゃを取り上げられるのがイヤで、駄々をこねているだけだ」などと言ってしまうのはたやすい。

そんな意見を持つ人とも議論を重ね、目指す方向を見つける忍耐も必要だろうが、企業の中で仲良くすることよりも、やはり一番必要なのはリーダーの「変えていかなければ」という熱い気持ちと、顧客を裏切らない姿勢なんだと思う。




不景気な時に不景気な話をしても・・・。

と言うか、そんな話題しか提供できない政府にも問題はあるのだろうが、日本を代表して向かった国際会議であの格好を放送され、見ている国民も後味の悪さを感じたのではないだろうか。

そんな姿を延々とテレビの報道番組で見せられた日には、不景気と萎んだ姿がよりショボーンと背を丸く、小さくさせるようだ。

こんな時はガハハと笑って過ごせる番組が嬉しい、個人的には一発芸のパフォーマンスで笑いを取るのではなく、昔のドリフターズの考えられた笑いが好きだ。

後は世界に対して誇れる日本を実感した時、人でも技術でも。

技術という点では基幹産業である自動車と、環境技術だろうか。

人としては辞任した中川昭一財務・金融担当相の報道で、陰に隠れてしまった形になるが、なんと言ってもエルサレム賞の授賞式での村上春樹のスピーチであろう。

昨日のニュースにもあったが、今日スピーチの全文が本人の署名付で公表されていた。

紛争のあったエルサレムに招かれて行き、その当事者の一方であるイスラエルのペレス首相の前でのこの発言は、イスラエルとパレスチナの人たちに、どう感じられたのだろう。
今さらもう、どっちがどれだけ悪いかなんて意見は不毛な話だ。
とりあえず戦争は止めにして、話し合いに入るきっかけにはならないものか。

エルサレム賞を受賞し、授賞式に参加することで、紛争当事者の一方にくみされるのでは、と言う懸念から欧米の作家達は受賞を辞退しているらしいが、授賞式に登場し、言いたいことを言ってくれたのは、景気の低迷で閉塞感を感じる日本国民には、良い風穴を開けてくれたのではないか?。

報道として酩酊した顔の大臣を映すのも必要かもしれないが、メディアがやらない物だから、Web上では色々な人が翻訳してアップしてある。
その中でもブログをwikiのように使い、意見を出し合って作られた「はてな」のブログがある、発言した本人が公表していない今の段階では、一番近いのかな?。

読んでみると、小説と比べたら全然短いほんの一言なんだけれど、なんだかちょっと感動させてくれた。

日本人としてこの様な発言をしてくれ、少し誇りに思った。

ニュースとしてどちらがプライオリティーが高いのかの判断一つにしても、既存メディアとWebとの温度差を感じる。

こんな言葉の力だけれど、少しだけ世界を変えてくれるんじゃないかと期待させる、そんな発言をしたのが日本人だなんて、まんざら日本も捨てた物じゃないだろう、と、世界中に対して誇れることではないのか。

今は寒い寒いと身をかがめながら歩くのではなく、国民が自信と誇りを持って、堂々と歩いて行く姿こそ必要なのではないだろうか。




大人の皮をかぶったお子様か

最近のメディアが流すニュースは、確かに明るい話題は少なく暗いと感じている。
まぁ、腹に据えかねる嫌なことも多いから、なのかもしれないが、最近なんだか覚悟が足りない、情けない大人が増えているのが原因かも?と思った。

ねぇ、G7で日本の品位を落としてくれ、その後の美術館でもひんしゅくを買い、いまだに国会議員しているあの人とか。
でもあの人はあまり攻めると、お父さんのように自殺されると後味悪いから、追い詰めない方が良いのかな。

新しい米大統領と電話で首脳会談した時に、何を言いたいのかよく判らなかった、と言われちゃったあの人とか。

個人的にもあいつやこいつなど、50才を過ぎてもガキみたいな考え方している奴とか、大人として付き合えないと怒りを覚えると言うより、笑いたくなる。
・・・どっかで聞いた台詞?

そんなニュースが飛び交う中、出会ったのが、福沢諭吉の『痩我慢の説』。

これは元徳川の幕臣だった勝海舟と榎本武陽の、出処進退を厳しく指摘した文章。

「当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといへども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りに非ず。」
「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」

これに対し、勝は。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候。」

福沢諭吉は「短期的な観点からすれば勝海舟の選択は正しい。けれども、武士としての考え方(武士道・痩せ我慢という美意識)から見ると、戦争の勝ち負けではなく、日本という国家が将来無くなってしまうのではないのか。
日本人が根本に持っている『痩せ我慢』と言う美意識を放棄したことが、一時の兵禍を免れるために行われたとしても、日本人の根本的美意識を弛めてしまっては、元には戻らないだろう。確かに功もあるが罪もある、罪の方は日本という国家がこれからずっと背負うことになるけど、これをどう償うのさ。」

これに対し勝は「出処進退はその人が自己決定することである。その成否や理非を論じるのは他人の仕事である。私が『私のことはこう評価してください』と他人にお願いする筋のものではない。
私への批判の文章、どんどん世間に発表してくださって結構。
でも、戴いた草稿はこのままくださいね。」

これを読むと、明治維新を経験したこの二人は、かっこいい大人だ。
お子ちゃまじゃ困っちゃうけれど、大人としての突っ張り方をわきまえている、やせ我慢が大人としての美学なのかもしれない。

政治の世界はよく判りません、ひょっとしたら屋根に登ったは良いけれど、梯子を外され、降りれなくなって上で泣いているのかもしれません。

でも泣いて済むのは凡人だけ、人の上に立つような人たちはやはり「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。」この心意気だけは欲しいよな。
って、無い物ねだり?




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