RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

今でも忘れません、2004年2月15日を。

首都高

 何があったか・・・は、バイクで事故りました。1986年に自動二輪の限定解除をし、イタリア・MOTO GUZZI社製のバイクを購入し、ツーリングなどに利用していました。その車両も20年を前に求められるようにツーリングクラブの友人に譲り、同じメーカーの真新しい排気量1100cc2気筒のバイクを購入したのでした。そのバイクに乗り、ツーリングクラブの創立20周年記念ツーリングのクラブミーティングに向かう途中、日曜の朝に会う友人達と会うために首都高のパーキングで過ごし、そろそろお開きでミーティング場所へと本線を走行中に起こりました。

 確かに煙草は、胸も苦しくなってきたことだし、そろそろ止めようと考えてはいたところでした。そんな漠然とした意志で、美味くないと感じながらも吸い続けたのですが、その日パーキングで吸った煙草は、いがらっぽいし不味い煙草だったんです。

 そんな状況でバイクを走らせ、気がついたら病院のベッドの上、目の前には白衣を着た先生と、いつの間にか来ていたウチの奥さん、クルマのクラブで一緒だった麻酔科の先生、あれ?何で先生が・・・。

 首都高のパーキングを出たのが、午前10時少し過ぎだったのは覚えています。良く話しをしていた友人と3台でつるんで走り、途中出口への側道で止まっていた友人を発見、バイクのトラブルかとエスケープゾーンにバイクを止め、一人が確認したところ、ガソリンコックの問題のようで問題なしと。後方からのクルマを確認し再び3台で走り出したところまで記憶に残っていますが、その先の記憶が先ほどのベッドの上で気がついたところからに繋がります。

 3台が走り出した時、私が先頭を走っていました。後を走る二人は私が記憶がないことはもちろん分かりません、でもえらく飛ばすな、と感じていたそうで、きつめのカーブを抜けたところで路上に赤い服を着た・・・人だ。先行した私が転けていると気がつき、バイクを止め後続のクルマの誘導と救急車の手配をしてくれました。



右肩初回
右肩です。左が搬入されたばかり、右が手術後。

 ICUのベッド上の私とかみさんに向かって、ERの先生がレントゲンを見ながらケガの説明をしてくれます、11時30分頃救急車で搬送され、ケガの場所:右上腕骨骨幹部・左橈骨開放骨折・左開放性モンテジア骨折、右多発肋骨骨折、肋骨の骨折による肝損傷、血気胸とのことだった。また血液の状態が貧血状態で、あまりよろしくなく、ヘモグロビン量をカウントする装置を足の親指に付け、増血剤を処方されてもいました。しかし両手の状態はレントゲンで見る限り、素人目にもご愁傷様といえるほど。



左肘初回
左肘です。これも左が搬入された時、右が手術後。

 クルマのクラブでご一緒させていただいた、麻酔科の部長先生は、偶然にも当直だったそうで、全身麻酔が必要なのに右肺がパンクしていたため、大変だったんだからと一言釘をさされ、こちらは平身低頭。救急部の先生の話だと、救急車で運ばれ各種検査後、約4時間かけて手術しましたが、右肩と左肘・手首といった関節のケガが非道く、治るまでは4年くらい、大きな手術も3〜4回は必要でしょうし、治ったとしても手を使う仕事には就けないでしょう。と、とても悲観的な治療結果報告でした。

 また、専門医に治療してもらった方が良いと言われ、先生に大学の医局でどなたか紹介していただくことは出来ませんか、と聞きましたが、心当たりがないと素気ない一言が。この一言が専門医を捜せるサイトを作ったきっかけになったんですけどね。




転院しました。

ランギロア・キアロアビレッジ

 今まで手が使えなくなるなんて事は、想像すらしていませんでした。入院して毎日三度の食事の時も、全て介護の方に口に運んで食べさせていただきました。本も読めません、テレビを見たくても点けられませんし、チャンネルも変えられません。イヤホンを自分の耳に付けることすら、看護師の方にお願いして付けていただくしか有りませんでした。

 それまであまり病気やケガをしたことが無く、生まれて初めて骨折し、入院生活を送りましたが、運び込まれたこの病院のホスピタリティーは素晴らしく、この後に転院した大学病院は動物園かと思えたほどでした。さすが入院するにも長い間待つ必要がある、人気ナンバーワンの病院で、今回入院できたのもたまたまICUのベッドに空きがあったためでした。

 独立して仕事をし始め11年が経っていましたが、心配なのはやはり仕事のこと。途中ペンディングで休止している大きな仕事も2件ほどありました、実際に仕事は同じ建物で一緒に仕事をしている、学校の同級生でもあり友人に引き継いでもらうようお願いし、少し安心できましたが、さあ、体のことはどうしましょう。

 途中ペンディングで止まった仕事の一つが、友人の整形外科医が勤務する大学の教室を紹介するパンフレットの仕事でした。その時期彼は学会などで忙しく、連絡が来ない日がしばらく続いており、退院してから挨拶にでも行くか、程度に考えていたところ、かみさんが持ち帰った携帯に入院翌日、その彼から連絡が入り、状況を説明したかみさんに「僕が診ますから、病院のレントゲンを、外来に持ってきてください」と言われたと、翌日病院に来た時に教えてくれました。



ランギロア・ダイビング

 その彼と友人として付き合いだしたのは、まだ24〜5才の頃、インド洋に浮かぶモルジブへダイビングをしに行った時に、同じツアーで知り合いました。その後お互いに写真が好きで、気も合った気軽さから歯科医師の友人と3人でタヒチ・ランギロア環礁に潜りにも行った中でした。モルジブで知り合った頃は医師国家試験に合格したての、まだ学生の延長みたいだった頃。ランギロアに行った時は、大学に戻り、アメリカに留学する前の頃で、何年か後日本に戻り、大学の研究室で、神経の再生などの成果を全国紙の新聞に取り上げられたり、世界的に有名なミュージシャンを治療したりと、そちらの世界ではかなり有名な人物になっていました。

 結局そのレントゲンで転院が認められ、ICUで退院できるという判断が下された2月最後の土曜日、退院したその足でタクシーに乗り込み、大学病院に転院しました。




転院先の大学病院で

建設中

 大学病院の医局には転院前にも、学会のポスター制作や、パンフレットの打合せ、写真撮影などで何度か伺い、友人の先生以外にも、声を掛けてくれる先生もいらっしゃいました。病室へ教授回診で先生方が回ってこられた時、その先生が人の顔を見るなり(クチパクで)何をしているんですか・・・。面目なかったですね、肩から両手固定していましたので、袖を通すパジャマは着られず、ホームレスみたいなとてもだらしない格好だったと言うこともありますが。

 病棟は昭和を感じさせ、歴史もある古い建物で、数ある医学部の中でも整形外科の臨床では、全国でも評価の高い大学でした。整形外科の教授は脊椎脊髄外科の専門で、友人は当時医局長を勤め、肩から指までを診る上肢グループのチーフでした。この大学は研究と臨床がクルマの両輪のように、バランスが取れた大学なのでしょう。実際教授・准教授はじめ、講師・助手の方には各学会の指導医・評議員の先生が揃っています。手の外科の評議員の先生は、ほとんどの大学でも 1名いらっしゃれば、専門外来など診察、後進の指導をされていらっしゃいますが、この転院した大学病院では友人の先生はじめ、4名の評議員の先生が揃っていました。

 しかもそれぞれの先生が、肩・手首・腱など、上肢の中でもさらに専門分野を専攻されており、私のように肩から指先まで複数箇所の障害を受けても、ワンストップで治療していただきました。土曜日に転院してきて、まず行ったことは詳細なレントゲン写真を撮ること、全身麻酔ですから心肺機能の検査など、足などには障害がなかったので、自由に動けるのですが、やはり貧血に近い状態だったために移動は、助手の方に車いすを押していただき、検査室を回りました。



肩
前の病院では治療の無かった左上腕骨も修理済み。

 土曜日に転院し、週が開けてから検査が続き、水曜日に手術予定でした。この大学病院は毎週水曜日の朝9時から、教授回診で担当医が教授と一緒に各病室を回るので、朝から大騒ぎで、この教授回診が終わった後、10時半くらいだったでしょうか、手術室に向かいました。手術が始まったのは11時過ぎ、口と鼻に呼吸器付けられてからは、あっと言う間に眠りの中に。手術が終わり病棟に戻ったのはなんと翌日の深夜2時、延々14時間の手術でした。



左手首
左手首です、術後の固定は創外固定。

左肘
左肘です、スゴイ数のピンが刺さっています。




退院

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 術中何かトラブルがあっても良いように、家族が控え室で待っていてくれていましたが、公共交通機関が終電を迎え帰れなくなるので、11時過ぎに断ってから帰路についたそうですが、ずいぶんと時間が掛かった物です。後から先生に聞くと、肘の粉砕骨折があまりにも細かく別れてしまっていたので、集めることができず、腸骨から骨移植したそうです。肩・肘・手首といっぺんには出来ませんから、それぞれが時間を必要としたのでしょう。

 病棟に戻ったと言っても、以前いた病室に戻ったわけではなく、手術後に容体が安定するまで集中治療室のような、安定室という部屋に2日間入り、術後の管理をしていただきましたが、3日目には元の病室に戻り、加えてリハビリが始まりました。関節のリハビリはとても痛く辛いと、風の噂には聞いていましたが、前の病院ではリハビリらしきトレーニングを一度もしませんでしたので、少しビビリながらのリハビリ開始です。

 右肩は支える靱帯も手術したのか、左右の肩の高さを保つことが出来ず、右に傾く格好で腕の重さを感じながら、上に挙げるトレーニングと、左手首は創外固定で動かないようガッチリ固定されていましたので、肘だけとりあえず少しずつ動かす程度でした。とは言え一週間も過ぎるとやることもなくなり、10日目には抜糸され、少しずつ不自由さから解放されて行き、手術から2週間過ぎた3月18日に退院しました。

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 事故ってケガしてから約1月後にはしゃばに出られた、と言う事でしょうか。大学病院から事務所までそれほど距離もありませんでしたので、タクシーでの帰りがけに事務所に寄り、みんなに挨拶してから帰宅しました。帰宅しても一人では食事も出来ませんし、左手首には創外固定の櫓が組んでありますので、一人では着替えも出来ないなど、家族には本当に世話になりました。

 とそんな状態でしたがお客さんに謝ったり、報告しなければいけませんし、翌日から事務所に出勤しました。電車での移動も手では体を支えられませんので、朝の通勤ラッシュが終わった頃、一番空いている車両を選びドアの近くに保たれながらの移動です。三角巾などで腕が悪いとアピールしても、シルバーシートに座る人に席を譲られたこともなく、しばらくは不自由を感じながらの移動でした。

 まず一番先にしたことは、電話を顔の近くで持つことが出来ませんので、携帯電話のマイクとイアフォンを近くのショップで購入し、お店の人にお願いしてセッティング・装着してもらい、事務所に着いてからも一度外すと自分では装着できませんのでそのまま。3月のまだ寒い時期でしたのでコートを着ていましたが、これも脱ぐと着ることが出来ないので着っぱなし。とは言えパソコンを起動しメールのチェックや、電話連絡などで手を使う事を時間をかけ積極的に行うと、人間の体は何とか動くようになるモンですね。

 退院した翌日の初出社で、損害保険会社から携帯に電話が掛かってきました。電話の向こうの担当は完璧に、まだ入院中で携帯電話は家族が持ち、本人が出るとは思っても見なかったようで「ケガの報告からは少なくとも3ヶ月は入院生活を強いられると予想していました」と、とてもビックリしていましたね。




その後

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 週に二日、病院に通いリハビリを続けていました。一日はリハビリだけ、もう一日は外来での診察も含めてです。退院してから2ヶ月が過ぎた5月中旬に創外固定の櫓を外すことが出来、ますます身軽に生活することが出来るようになりました。事務所では毎日マウスを動かすだけの仕事でしたが、右肩も、左肘もだんだん可動域が増え、一月もしたら箸を使って一人で食事することも出来るようになりました。入院中は食事も一人では食べられませんでしたから、リハビリの先生に退院後、一人でラーメン屋に食べに行くのが夢です、なんて話したこともなんだか懐かしく思い出します。

  8月の頭には、左肘に沢山入っていた釘を抜くのに一週間ほど再入院。実際には抜釘だけでしたら、日帰りの手術で良かったのですが、創外固定で手首を固定していたため、腱が癒着してしまい手首から指まで動かなくなっていましたので、それを動くよう「腱の引っぺがし」をすると言われました。

 この時は手術した翌日から、リハビリ室に通い、退院した後も先生にお願いして、一日おきにリハビリできるようにお願いしました。外傷で関節に障害が出て、可動域が狭くなる方も沢山いらっしゃいますが、完治までの治療を10割としたら外科的手術は3〜4割で、後は医師の指導によるリハビリで回復の度合いに差が出ると感じました。

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 友人の医師とはなぜか自分の治療について、あまり話しをしなかった替わりに、肩と手首の先生とはその後も色々とお話を伺ったりしましたが、肩も手首も楽観できるような状態では無かったようです。しかし最終的に傷害保険の、後遺障害認定の診断書をお願いした時に、あれだけの怪我で良くここまで回復できた、というのも話してくださいました。しかし同じ治療を受ければ全ての人が回復できると言うわけではなく、私の後に怪我の状況が同じような方が入院され、治療をされたそうですが、ここまで回復できず、人それぞれだよと言われていました。

 ケガした状況は人それぞれでも、急性期を過ぎればリハビリを開始し、担当医と療法士の先生に指導を受け進めていきますが、色々なリハビリ運動の中で「あっ、これ自分には効果がある」という物も見つかるんです、私左手首も可動性が悪かったですが、第五中手骨骨折(小指)で手を握ることが出来ず、握力があまり出ませんでした。リハビリで丸棒を握り粘土を搗く練習をしたとき、良く指が曲がるようになりました。東急ハンズでリハビリで使った棒と同じくらいの丸棒を買い求め、普段持ち歩けるくらいの長さに切断し、移動の時や仕事中でも左手があいているときに、その棒を握り、自分の太ももを押す訓練をしばらく続けたら、グーの形を取れるようになりました。

 この時に整形外科の基本ってここにあるのかな?と感じました。体の構造を熟知した医師に体を修正してもらい、指導のもと患者主導で体を使い、動かすことで運動機能を回復させる。こんな患者の意識の持ち方からも、同じ治療を受けていながら結果に違いが出るのではないかと。




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