RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

流行廃りは、人の気持ちの変化から

と言うか、自分の気持ちの変化と言ってもいいのかな、そこそこちゃんとした物が手軽に手に入れることが出来てくると、あまりこだわりが無くなってくるように感じる。例えばコーヒー、数年前までは朝事務所で最初にする儀式は、一杯のおいしいコーヒーを入れることから始まったけれど、最近は挽いた豆をドリップで煎れることも少なくなった。

それまでおいしいコーヒーを飲むためにはコーヒー専門店に行って、日替わりの豆で煎れるストレートサービスを飲むか、煎った豆を買ってきてドリップして飲むしかなかったが、最近は駅近くのスタンドにあるドトールや、スタバ。マクドナルドなどコーヒー店意外でもおいしいコーヒーを手軽に飲めるようになってきた。

そんなワンコインで手軽においしいコーヒーを飲めるようになったことで、コーヒーに持っていたこだわりはずいぶんと小さな物になった。マーケットとしてもこだわって購入してくれる人はまだまだいるのだろうが、デパ地下などでコーヒー豆の挽き売り専門店などが少なくなったことを見ると、ずいぶんと縮小してしまったように感じる。

そば屋なんてのもそうだろうな、鰹節などで出汁を取ってみりんと返しを入れてなど、ずいぶんと手間暇が掛かっためんつゆも、今じゃスーパーの醤油売り場の横に多くのスペースを使い、様々なブランドの製品が数多く並ぶ。それか和のファーストフードとしての立ち食いそば屋か。

昔の刑事物のドラマでよく見かけた、容疑者と刑事の取調室でのやりとりの中でも、容疑者に食べさせるのは近所のそば屋から出前を取ったカツ丼だったが、これからはどうなるのだ? 刑事がコンビニで買ってきたおにぎりとか、弁当やパンになるのか?。まさか給食センターが配達する弁当じゃないよね。

これらすべて、長い間訓練し作ることに慣れた職人にしか許されなかった職域だった。その職人しかできなかった物が、コモディティー化のおかげで手軽に手に入れることが出来るようになった事で、我々庶民もおいしい物を手軽に、安く手に入れることが出来るようになった訳だけれど、多くの職を失った人もいることも事実だ。

だからと言って今まで入手するのに大変な労力が必要だった物が、簡単に入手できるようになった事に反対している訳ではない。昔から人に求められる仕事は、社会の変化と共に輪廻を繰り返すように変わってきた。これからもその流れは続くだろうし、実際にデザインの世界ではすでに始まっているように感じる。

また、通信環境のインフラ整備がこれだけ進んでくると、物を売ることで利益を得るのではなく、そのサービスを提供することで利益を得る商売が多く出てくると思われる。たとえ士業として法律の下で成り立っている弁護士や、会計士もその例に違わないのではないだろうか。

今はソフトを作り販売する会社も、定期的にバージョンアップが必要なエクセルやワードと言ったソフトを販売するよりも、Googleの提供するドキュメントや、スプレッドシートのように、クラウドコンピューティングでサービスを提供してもらう方が、利用する側としては利便性が高い人もいるだろう。

会計事務所が月々所定の金額で顧問契約し、決算時にも別に決算料を徴収される顧問会計士という制度よりも、先生に定期的に訪問してもらわなくても、光熱費に近い安価な金額で Web上の帳簿を監査・アドバイスし、後は自動的に決算書類ができあがると言うような、簿記に近い物と経営コンサルティングに分化すれば、法人化していない商店など自営業者もサービスに乗るのではないか?。

まぁ、セキュリティーや監督官庁などいろいろな問題があるのは承知の上で、会計というサービスを一つの例として、社会から求められているであろうそんなサービスを新たに起こせば、新しい職域が生まれるのではないでしょうか。




非道い会社が有ったもんだ

HD

現在の仕事はPCを道具として、片時も手放せない状態で仕事している人も多いだろう。IT関連やコンテンツの制作会社などは、PCが道具として立ちゆかなくなった時は死活問題になる。だからPCの環境をシステムとして組む時に、必ずバックアップを考え、専用のデバイスを用意する。

10年くらい前に揃えたマシンでは、Digtal Data Storageと言うデジタルビデオテープのようなメディアを使ったバックアップ機材を購入し、定期的にドキュメントを保存していたが、その頃のテープ一本の保存容量は12GBしかなかったし、記憶させる機械自体確か30万円ぐらいし、非常に高価だった事を覚えている。数年前もLANに繋いで使うNASと言われるHD、RAIDを組んで2TBの容量の物を購入し、データーのバックアップ用に使っていたが、30万近くした物が今では15万くらいで購入できる上、OSがレパードになって使えなくなり、まわりの人に使ってもらっている。

考えてみると、バックアップという行為に、ずいぶんとお布施をしてきた物だ。

今はHDの容量も上がり、1TBと言う容量のHDでも1万円を切るのも普通になってきた。都合の良いことにMac OS-Xのレパードから、OS自体に「タイムマシーン」という機能が付いたが、バックアップとしてはほぼ完璧だろう。

しかし未だにDTPの世界では、Mac OS-9を使って仕事をしているところもある、フロアーは違うが一緒に仕事をしている古い友人もその一人だ。

OS-9には「タイムマシーン」と言う機能は無く、バックアップはアナログ的に自分でメディアを選んでコピーを取る以外方法はない。仕事の途中でデーターを保存してあるHDが反応しなくなったら、それでお手上げだ。文章にするとたったこれだけの事だが、何だよコピー取っておかなかったの?壊れないと信じるヤツがバカだ、などと言われるのがオチで、あとは泣きながら徹夜で失ったデーターを作り直す。クライアントに頭を下げて回り壊れる前のスタート地点に必死で戻るだけだ。

と言いたい事が現実に起こってしまった。

ひと昔と違い、一台のPCで写真のレタッチから切り抜きもデザイナーが行う。動かなくなってしまったHDには、そんな仕事の足跡全てが保存してあったという。本人曰くその外付けHDは、ボタン式の電源スイッチが脆弱で何度かトラブルもあったので、今回も同じそのトラブルと考え、購入した店に連絡し対応策を考えていたが、仕事で使っている物だし、時間も節約したいと都内にあるHDのデーター復旧会社に連絡し持って行った、そのような業界や業者に対する知識も、どのような対応をするのかの予備知識もなく。

彼はトラブルの原因を電源スイッチあたりとにらんで持って行き、その箇所を診断してもらおうと考えていた、見積もりまでは無料と有ったから。

もし体の具合が悪くなったとすれば、医師は患者の顔色や痛い場所を含めて触診し、血液検査や尿検査、レントゲンやMRIなど診断装置を使って特定し、その症状に対して治療を行う。しかしそのデーター復旧会社はHDの具合の悪い、特定された根拠は示さない。と言うかHDメーカー自体も不具合の出た箇所を、特定し診断するデーターを持ち合わせてはいないのではないだろうか。

だから例え電源スイッチだけの不具合で、機能しなくなったHDも、根幹的な大きなトラブルが原因と言われてしまえば持ち帰るしか無く、ホストコンピューターに繋いであるのを、返却のために外した場合、データーが全て破損する可能性がありますと脅されれば、トラブルの原因をこちらで検証する事もできなくなり、言われるがままに復旧作業を依頼するしか選べなくなってしまう。

しかも2〜3日で復旧する場合の見積金額は、なんと39万円。高額なので難色を示すと、10日間の作業時間で25万円の見積が出たそうで、とても大切なデータだったので25万円のコースで依頼書にサインしてきたそうだ。HDのデーター復旧は以前から高額とは聞いていたが、トラブルの箇所を憶測でしか示してくれず、作業内容も開示しないのでは本当にその作業をしているのかは、外部の人間には分からない。精密な機械だから直す事は難しいかもしれないが、意図的に壊す事は簡単でもある、ベアドライブのジャンパピンを差し替えるだけで、普通のユーザーには読み取る事も出来ないだろう。その会社が意図的にそのような事をしているのでは?と訝しんで書いているのではない。あまりにも内容が不透明なところで、大きな金額を要求されているのがとても理不尽と感じただけだ。

なんだか友人は、人の弱みにつけ込んだ詐欺まがいの商法に捕まってしまったように感じる。




職業の限界?

クリエイターとしての価値観を上げるために、クリエイティビティーと言うブランディングだけでは、認知されないと言ういかんともしがたい部分が多くなってきた。

カタログなどの立込の撮影も、スタジオ代や実際に立込にかかる費用、カメラマンなどの拘束時間や天候待ちなど費用や利便性から、Autodeskのような3DCGを積極的に使うメーカーが出てきていて、今後主流になるのではないかと考える。

見る人を唸らせる質の高い写真は、それを理解してくれる一部の人は価値を認めてくれるが、普通の人たちは安くてもそこそこのクォリティーが確保されていれば満足してしまう。

クリエイティビティーと言う質を特徴として差別化して行っても、今まで座っていた椅子が半分に減らされたような物だから、新しい椅子を探すのも大変。
昔一緒に仕事したカメラマンも、いつの間にか消えていった。

・・・昔はいれてくれるマスターの腕と、豆を煎るローストの加減に価値を認め、一杯400円のコーヒーを喜んで飲んでいたけど、今じゃマクドナルドの100円コーヒーで満足する人が多くなっているんじゃない。?

グラフィックの世界では、ADCや毎広などの賞を取ったデザイナーでも、仕事が無くて食べていくのに苦労していて、私なんかは消える前の風前の灯火。

PROなんだから仕事に関しては誇りもあるし、手も抜く事など考えもせず、外に出して恥ずかしくない物を作って来たつもりだ。それがクライアントを説得し、仕事を呼ぶ唯一の営業方法だったから。
しかも、周りを見ればもっとスゴイ人たちが沢山いて、そんな人たちの作品を見ると自分の仕事もまだまだとは思うが、社会の一部は仕事をクォリティーではなく、効率で評価しようとする。

・・・だって、デジカメ使えば誰だって雑誌に載っている人の顔“くらい”のものは撮れるし、PCで画像処理だって出来ちゃう。

PROの仕事の評価をアマチュアである担当者が自分を基準に測るから、高いお金は出せない。だってチャッチャッと行って撮ってくれば終わりでしょ?、ってなもんだ。

ひょっとしたらデザイナーにしろカメラマンにしろイラストレーターにしろ、クリエイターは広告を通じて企業というパトロンから養ってもらい、文化的にも成熟した職業だったのかもしれない。

そんなお金の流れが変わってしまったとすれば、その他大勢の分母が支えてきた文化なんてあっという間に崩壊する、それを嫌って日常の中に非日常と言う女性の裸を入れ込んだ写真で、文化を活性化しようとした篠山紀信事務所が家宅捜索されたのも、崩壊を助長する現象の一つなのかもしれない。

物を創るクリエイティブな仕事は好きだけど、職業として成り立って行かなくなるのだったら次は何をしたらいいのか、と悩み考える今日この頃である。




クリエイターに求められるフィロソフィーって

フィロソフィーを直訳すと哲学です、参加しているSNSのコミュニティーで海外のカメラマンから「日本人カメラマンにはフィロソフィーが足りない」との話で少し盛り上がりました。でもクリエイティブのための哲学はなんだと言ってもあまりにも漠然としていて、クリエイティブのどこに、何に対して哲学が必要なのか、そもそもそんな物が必要なのかさえ分からなかったりする。

しかし物を作り出す画家や音楽家から作り出された作品には、見たり聞く人が受ける印象に作家としてのフィロソフィーを感じます。そんな作品に対するフィロソフィーは、プロのカメラマンやイラストレーターに必要とされているのでしょうか。

だいたい写真や絵を描く初期の頃は、このカメラマンの作品みたいな写真を撮りたいとか、このイラストレーターのこんな絵を描きたいなど、まずは模倣から始まることが多いと思いますが、撮りためて、描きためていくうちに、生活や周りの人から受けた自分としての「生き方」などが段々と形づくられるようになり、それを表現する画像やイラストに反映され、見る人が作家の気持ちをその作品から感じることで、その作品の評価に繋がっていきます。

つまりクリエイターに求められるフィロソフィーとは、その作家の生き様を作品にぶつけた結果を出せているかどうかだと思いますが、生き様と言うことだと哲学と言っては少しニュアンスが違うのかな、プリンシプルの方が正しいかも知れません。

例えばカメラで写真一枚撮るにしても対象となるのは風景があったり、人物があったり、人物の中でも女性を美しくだったり、運動しているダイナミックな体の動きを撮ったりと、自分が表現しよう、誰かに「自分が受けた感動を伝えたい」の気持ちを持ってのシャッターを切る時に、撮影する側が被写体をどのように理解し、どのように表現すべきかの意志を持つことによって作品になるか、ただの写真で終わってしまうか分かれてしまうと感じます。

その方向性が多くの人に認められ、評価されるとその人個人のブランドになりますから、持つクリエイターと持たないクリエイターとの間は、年が過ぎるにつれ大きな差が出来てくるでしょう。




その道のPROでなくても。

道具としてのPCやデジタル機器はハードとソフトを併せ、この10年くらいにとても進化していて、それまではその専門知識やスキルがなければ出来なかった事が、道具として使いこなすスキルがあれば色々な事が出来るようになりました。例えば一デザイナーが写真を美しく撮るスキルを持っていれば、デジカメ一つで撮影から印刷原稿まで作れますし、その反対に製版を理解していればカメラマンが印刷原稿を作る事が出来るように、職域の壁はチャレンジする気持さえあればとても低い物になってきました。

グラフィックデザイナーでも昔から文章が上手い人はコピーも書いたし、写真撮影が上手い人は撮影もして仕事に生かしていました。私はグラフィックの、ファッションの、インダストリアルのと専門分野を主張して壁を作るのは、日本には昔からその職業がなかったからでしょうか。

ヨーロッパなどでは建築家がインダストリアルデザインをしたり、グラフィックデザインをしたり、職業人以前にクリエーターとして活動されている方が多く見受けられるように感じます。

いや、日本人デザイナーでもいますよ、私の回りにもたくさんと。その中でも学校から同級生で、今も一緒の建物で仕事している友人は、生活で感じていた不便から思いついた商品を、型から起こし、中国に量産を依頼して製品にすると言う、よくぞ一人で作り上げたと、その情熱の爪の垢でも煎じて飲みたいくらい(あまり誉めると頭に乗るのでここまで・・・笑)。

一軒家を大手住宅メーカーなどで建てた場合、スペースの問題で意外と蔑ろにされてしまうのがトイレ内の収納スペース。特にマンションなどでは掃除用具をいれたら、後は何もいれるスペースがなくなった。と言うお宅や事務所をよく見ていましたが、彼が創ったのはそのトイレットペーパーを効率的に収納する道具で、トイレットペーパー・ロールハンガーと言っている物です。



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パッケージングからデザインまで、非常によく考えられているので許可をもらって公表します。



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パーツは2つに分かれていて環になっている「Oパーツ」と、パッケージにはそのパーツの中に入って収まっている「Iパーツ」で、ヒモで結ばれており、壁に付けたフックに「Iパーツ」を掛け、トイレットペーパーを壁から吊す。「Oパーツ」には一対の小さな羽が付いており、トイレットペーパが勝手に下に落ちないようストッパーになっている。必要な時には「Oパーツ」を軽く握る事でストッパーがロールの芯より小さくなるために落ちてくるのだが、羽が反発で広がろうとするために、いきなり落ちては来ないし、次のロールはちゃんとストッパーで止まる。



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製品というのは求められる機能がシンプルに働けば働くほど効率は良い。

この製品は驚くほどシンプルだが、期待に応える機能を持っている。大きなメーカーの製品ではなくてもヒットしそうな機能だと思うが、良くもまぁ、多分自分がトイレに座っている時に必要だったから思いついたアイディアからこんな製品を作り出すなんて。

このアイディアいける!と自分でも思ったのだろうが、作った以上成功して欲しいものだ。




コーポレートコミュニケーションの重要性

こんなデフレと不況がダブルパンチで襲って来る中、中小企業、特に B to C を中心に商売されている企業は、企業とステークホルダーとのコミュニケーションを真剣に考えるべきです。なぜ中小企業かなのは、大企業は資本力もあるので広告宣伝を行うために、昔からコーポレートコミュニケーションを統括する広報部や宣伝部と言う自社をアピールするための部署で、企業とそのステークホルダーに対してのコミュニケーションを深めてきましたが、中小企業では総務部あたりが処理するか、社員が行っても他の仕事との兼務だったり、社長が一人で対応したりと、その場しのぎの感を拭いきれませんでした。

コーポレートコミュニケーションと一言でいっても、広告を出すとかホームページを作って自社をPRするだけではありませんし、ましてや社員の不祥事の尻ぬぐいをする事でもありません。企業を取り巻く様々な人たちに安心してお付き合いできる会社と感じてもらい、企業自体はもちろん、扱う商品・サービスに「価値を感じてもらう事」を目的として活動すること全てを指します。

以前のエントリー「メッセージを伝えるために。」でも書きましたが、インターネットの普及でこの10年ほどで社会に流通する情報量が天文学的に増え、中でもメールやブログと言ったパーソナルメディアでの情報伝達のされ方を見ると、商品やお店の評価がWebと言う口コミであっという間に伝わると言うこと。

コーポレートガバナンスやコンプライアンスを遵守することは当然として、その遵守している姿をステークホルダーとコミュニケーションできていれば、信頼感は大きく上がります。そう、世の中にはライバルが沢山いて、比較購買で商品が俎上に上がっていた場合、その信頼感で最後に選んでもらえれば良いのです。

具体的に何すりゃいいのか、何かキャンペーンみたいな物が必要なのかと聞かれると、これはもう企業の体質改善としか言い様はなく、イベントをやったから「好感度○○%アップ!」何て事はマグレか宝くじに当たったようなもので、メタボな体を健康的な体に作り替えるために食事に気を配ったり、運動してみたりと、何か一つの事だけではなく、色々なことを併用して行う方が効率が良かったりするのも、体質改善に似ているのかもしれません。

だからその場しのぎでするのではなく、企業戦略を良く理解している専門の担当を付け、中長期的な観点からコミュニケーションを戦略的に構築する必要があるのです。

予算が取れるのであればPR会社や広告代理店と言った外部に依頼も出来るでしょうが、取締役の一人が責任者となり、若いスタッフに必要であれば我々のような外部のブレーンと共に進めていくのが、一番現実的ではないでしょうか。

でも、最初に中小企業などと書きましたが、これをやることで差別化やブランディングに繋がるのですから、病院やNPOなどの非営利団体も考えていかなければいけない事だと思います。




久しぶりに「文字の力」を感じたコピーに出会った

一昔前に「コピーライターの時代」とか言われ、糸井さんとか仲畑さんとか、広告制作のコピーライターがずいぶんともて囃された時がありました。その頃スタープレーヤーと言われたコピーライターたちの仕事は、キャッチコピー一行100万円なんて事もまことしやかに伝わっていましたが、クリエイティブディレクターとして広告全体をディレクションすれば、そんな金額もあながち嘘ではなかったと思います。

そんな時代から現在ではWebという情報流通の環境が変わり、流通量が大きく変化するにつれ、文字という情報の単価が低くなったのか、広告のコピーを含め、見る人にメッセージを残すようなインパクトの強い広告が少なくなったと感じていました。

中吊り広告

でも、今日乗った東海道線で読売新聞の中吊り広告を見て、久しぶりに良い広告だと感じた。

ビジュアルは一人寂しく座る教室の写真に、少し長めのコピーが付く。




ひとの心を傷つけて

喜ぶ心さびしき者に

聞く耳はなかろうから、

中傷された君に言う。

蠅たちの集まりでは、

蝶も「キモイ」と

陰口をたたかれるだろう。

心ない者たちのうちにも

自分と同じ美しさを探しつつ、

君はひとり、

大人になればいい。




多分コピーライターが書いた物ではないのだろうが、見る人に元気を与えてくれる応援歌のように聞こえる。もちろん子供が出てきて「いじめ」の問題を扱っていることはよく分かるが、この広告はその当事者である子供たちに対して直接語りかけるメッセージではない。読売新聞という一企業が新聞という商品のイメージアップを狙って出した広告だ。

情報を発信するメディアとして、社会の事象をどのように受け取り、それをどのように社会に伝えていくか、オピニオンリーダーとして共感され、認められる事をしているのかという、自分の力を社会に問いただす広告でもあると思う。

けしてお金も掛かってはいない地味とも言える広告だが、もしこの広告がシリーズ広告だとしたら次はどんな切り口で持ってくるのだろうか、興味津々です。




なるほど!と感じたキーワード。

今まで何度か情報の流通量が、この数年間で天文学的とも言われるほど増えたから、お店や企業はステークホルダーとのコミュニケーションをいっそう深めるためにも、企業戦略には広報という考え方が重要になってきたと書いてきましたが、なぜ情報量が増えた結果として、コミュニケーションを深めなければいけないのか、感覚としては理解して活動していましたが、それは決して目的ではなく手段としての方便で、顧客に対して嘘をつくなとか順法精神を大切にしろとか、要は企業経営に対してコンプライアンスやコーポレートガバナンスという考え方が大事で、企業経営に反映され活動していても、本質的な目的を明文化して「これこれこうだから必要なのだ」という明確な言葉として理由を持てずにいました。

先日たまたま目にした神戸女学院大学教授の内田樹さんのブログでなるほどな、と手を打つキーワードがありましたので、紹介させていただきます。

人間って動物は群れの中で生活する動物だから、仲間はずれにされる事を嫌う。この事から所属する社会(グループ)の中で悪とされる事は避けて通り、誉められる事を進んで行う傾向がある。つまりその商品を購入する事で罪悪感を感じる商品は売れず、購入する事が善行と感じられる商品が売れる事になると言う「ギルティーフリー」のマーケティング。

この社会(グループ)は、求めているコンシュマー層なので、年齢や嗜好によって変化するターゲット層によっては善と悪は反転するかもしれませんので、百のターゲット層があれば百の答えがあり、けして答えは一つではありません。具体的に言うと環境に対して負荷の低い商品であるとか、健康に被害をもたらす素材を使わない体に優しい商品であるとか、貧しい国の労働者から搾取するような形で商品を輸入しない、フェアトレードの商品であるなど、社会的に見て認められる物なのか、認められない物なのかの判断による物です。

この内田さんのブログでは「ギルティーフリー」と「サスティナブル」マーケティングを紹介していますが、現在「サスティナブル」に関しては「ギルティーフリー」と言う考え方の一つに含まれていると考えて差し支えないと思いますので、ステークホルダーに対しコミュニケーションをとる目的は、我が社の商品・サービスの全ては「ギルティーフリー」である。と言う事を伝えるために活動することですが、分かり易くコンプライアンスやコーポレートガバナンスと言った方が「企業として必要な事」として理解されやすいと思います。

商品に関する広告は今まで、テレビや新聞と言ったメディアに掲載する事で成り立ってきましたが、長く続ける事はけして安くない媒体料金が掛かるという事と、見る人に飽きられるという観点から、鮮やかな印象を短期間で与えるということに力点が置かれて来ました。

しかし広報(PR)による「ギルティーフリー」で良い企業というイメージを伝えるのは、短期間で行う物ではなく、体質改善のように規則正しい生活から健康な体が生まれると言うような、長い時間を掛けてのイメージの構築のほうが必要で適切な方法と感じます。

この様な目的に合うメディアはWebを中心に、なるべく多くの情報を開示していく事が必要で、製品や使う素材の安全性を説明したり、同じタイプで比較して製品の優秀性をアピールしたり、表面的な印象だけでなく、深く理解してもらうために機能の説明をしたりしています。

比較的規模の小さい企業では、親近感を伝える目的もあると思いますが、担当者や管理者、または社長のブログなどリンクされていて覗いてみたりしますが、お世辞にも読んで面白いと感じるブログは少なく、苦労して素材を探して書いているにもかかわらず、本当にこのブログがイメージアップに繋がるのだろうかと感じる物も少なくありません。

そんな時はひとつ、自社の製品でも企業体質でも管理者の考え方でも、社会に対し我が社は「ギルティーフリー」であると言う切り口でブログを書いてみてはいかがでしょうか、きっと社長の苦労話よりはイメージアップに繋がると思うのですが、いかがでしょうか。




コンビニ来訪者の変化に驚く

ライブドアニュースに「コンビニ来訪客の世代分布をグラフ化してみる(2009年11月版)」を読んだ、1989年から15年間のデーターは5年毎の物しかないが、2006年度以降は毎年毎の数字が出ている。データのある1989年から現在の来訪客数を比べると、20歳未満と20歳代の減少が見え、反対に 40歳代〜50歳代の増加が分かる。

コンビニは私もよく利用しているが、このニュースの記者が結論づけているような結果とはいささか違うと感じる。

データーのある1989年頃だが、この頃のコンビニの品揃えは現在の物と異なっており、どちらかというとミニスーパー的ではなかったか。

90年に入ってバブルが崩壊し、財布のヒモを絞られた人たちに今まであった弁当やおにぎりと言った内食でも外食でもない、買って帰って自宅や会社で食べるといった中食の品揃えに力を入れはじめ、家から一歩出た後は、コンビニがお客様の冷蔵庫として、食事からデザート、おやつや酒の肴まで提供する品揃えに転換したから、若年層だけでなく多くの年齢層に親しまれ、利用されるようになったのではないかと感じる。

若年層、特に20歳未満の減少が毎年定常的に減って来ている理由は何だろうか、とは言っても近年この2〜3年では利用者数は微増していたりするので、ここいら辺の数字で下げ止まりだろうか。

私は購入する商品の差があるのではと感じる、中高生あたりでは弁当などの食料よりも、お菓子やおやつ、漫画や雑誌などが中心で、毎日必ず利用する商品ではないように感ずる、飲料だと自販機でも済んでしまうだろう。

それに比べ中食としての食料を求める客は、パンやおにぎり、弁当やインスタント食品など比較できるアイテムが揃うコンビニは、毎日利用するお店なのではないだろうか。

世帯の家族構成が多い場合、コンビニで食料品を購入するよりも、スーパーで食材を購入し自宅で作る方が効率が高いが、子供たちが大きくなり家を出て行った後に残された夫婦二人だけでは、食べる分だけ買ってきた方が効率的でもある。

少子高齢化が進むのは簡単には止められないだろうし、地域社会の中心的な施設としてコンビニの求められる役割は、より強くなっていき、この表にはなかった50歳代よりも上の年齢層も主要購買者層として登場する日も近いのではないだろうか。




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