RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

コーポレートコミュニケーションの重要性

こんなデフレと不況がダブルパンチで襲って来る中、中小企業、特に B to C を中心に商売されている企業は、企業とステークホルダーとのコミュニケーションを真剣に考えるべきです。なぜ中小企業かなのは、大企業は資本力もあるので広告宣伝を行うために、昔からコーポレートコミュニケーションを統括する広報部や宣伝部と言う自社をアピールするための部署で、企業とそのステークホルダーに対してのコミュニケーションを深めてきましたが、中小企業では総務部あたりが処理するか、社員が行っても他の仕事との兼務だったり、社長が一人で対応したりと、その場しのぎの感を拭いきれませんでした。

コーポレートコミュニケーションと一言でいっても、広告を出すとかホームページを作って自社をPRするだけではありませんし、ましてや社員の不祥事の尻ぬぐいをする事でもありません。企業を取り巻く様々な人たちに安心してお付き合いできる会社と感じてもらい、企業自体はもちろん、扱う商品・サービスに「価値を感じてもらう事」を目的として活動すること全てを指します。

以前のエントリー「メッセージを伝えるために。」でも書きましたが、インターネットの普及でこの10年ほどで社会に流通する情報量が天文学的に増え、中でもメールやブログと言ったパーソナルメディアでの情報伝達のされ方を見ると、商品やお店の評価がWebと言う口コミであっという間に伝わると言うこと。

コーポレートガバナンスやコンプライアンスを遵守することは当然として、その遵守している姿をステークホルダーとコミュニケーションできていれば、信頼感は大きく上がります。そう、世の中にはライバルが沢山いて、比較購買で商品が俎上に上がっていた場合、その信頼感で最後に選んでもらえれば良いのです。

具体的に何すりゃいいのか、何かキャンペーンみたいな物が必要なのかと聞かれると、これはもう企業の体質改善としか言い様はなく、イベントをやったから「好感度○○%アップ!」何て事はマグレか宝くじに当たったようなもので、メタボな体を健康的な体に作り替えるために食事に気を配ったり、運動してみたりと、何か一つの事だけではなく、色々なことを併用して行う方が効率が良かったりするのも、体質改善に似ているのかもしれません。

だからその場しのぎでするのではなく、企業戦略を良く理解している専門の担当を付け、中長期的な観点からコミュニケーションを戦略的に構築する必要があるのです。

予算が取れるのであればPR会社や広告代理店と言った外部に依頼も出来るでしょうが、取締役の一人が責任者となり、若いスタッフに必要であれば我々のような外部のブレーンと共に進めていくのが、一番現実的ではないでしょうか。

でも、最初に中小企業などと書きましたが、これをやることで差別化やブランディングに繋がるのですから、病院やNPOなどの非営利団体も考えていかなければいけない事だと思います。




その道のPROでなくても。

道具としてのPCやデジタル機器はハードとソフトを併せ、この10年くらいにとても進化していて、それまではその専門知識やスキルがなければ出来なかった事が、道具として使いこなすスキルがあれば色々な事が出来るようになりました。例えば一デザイナーが写真を美しく撮るスキルを持っていれば、デジカメ一つで撮影から印刷原稿まで作れますし、その反対に製版を理解していればカメラマンが印刷原稿を作る事が出来るように、職域の壁はチャレンジする気持さえあればとても低い物になってきました。

グラフィックデザイナーでも昔から文章が上手い人はコピーも書いたし、写真撮影が上手い人は撮影もして仕事に生かしていました。私はグラフィックの、ファッションの、インダストリアルのと専門分野を主張して壁を作るのは、日本には昔からその職業がなかったからでしょうか。

ヨーロッパなどでは建築家がインダストリアルデザインをしたり、グラフィックデザインをしたり、職業人以前にクリエーターとして活動されている方が多く見受けられるように感じます。

いや、日本人デザイナーでもいますよ、私の回りにもたくさんと。その中でも学校から同級生で、今も一緒の建物で仕事している友人は、生活で感じていた不便から思いついた商品を、型から起こし、中国に量産を依頼して製品にすると言う、よくぞ一人で作り上げたと、その情熱の爪の垢でも煎じて飲みたいくらい(あまり誉めると頭に乗るのでここまで・・・笑)。

一軒家を大手住宅メーカーなどで建てた場合、スペースの問題で意外と蔑ろにされてしまうのがトイレ内の収納スペース。特にマンションなどでは掃除用具をいれたら、後は何もいれるスペースがなくなった。と言うお宅や事務所をよく見ていましたが、彼が創ったのはそのトイレットペーパーを効率的に収納する道具で、トイレットペーパー・ロールハンガーと言っている物です。



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パッケージングからデザインまで、非常によく考えられているので許可をもらって公表します。



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パーツは2つに分かれていて環になっている「Oパーツ」と、パッケージにはそのパーツの中に入って収まっている「Iパーツ」で、ヒモで結ばれており、壁に付けたフックに「Iパーツ」を掛け、トイレットペーパーを壁から吊す。「Oパーツ」には一対の小さな羽が付いており、トイレットペーパが勝手に下に落ちないようストッパーになっている。必要な時には「Oパーツ」を軽く握る事でストッパーがロールの芯より小さくなるために落ちてくるのだが、羽が反発で広がろうとするために、いきなり落ちては来ないし、次のロールはちゃんとストッパーで止まる。



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製品というのは求められる機能がシンプルに働けば働くほど効率は良い。

この製品は驚くほどシンプルだが、期待に応える機能を持っている。大きなメーカーの製品ではなくてもヒットしそうな機能だと思うが、良くもまぁ、多分自分がトイレに座っている時に必要だったから思いついたアイディアからこんな製品を作り出すなんて。

このアイディアいける!と自分でも思ったのだろうが、作った以上成功して欲しいものだ。




クリエイターに求められるフィロソフィーって

フィロソフィーを直訳すと哲学です、参加しているSNSのコミュニティーで海外のカメラマンから「日本人カメラマンにはフィロソフィーが足りない」との話で少し盛り上がりました。でもクリエイティブのための哲学はなんだと言ってもあまりにも漠然としていて、クリエイティブのどこに、何に対して哲学が必要なのか、そもそもそんな物が必要なのかさえ分からなかったりする。

しかし物を作り出す画家や音楽家から作り出された作品には、見たり聞く人が受ける印象に作家としてのフィロソフィーを感じます。そんな作品に対するフィロソフィーは、プロのカメラマンやイラストレーターに必要とされているのでしょうか。

だいたい写真や絵を描く初期の頃は、このカメラマンの作品みたいな写真を撮りたいとか、このイラストレーターのこんな絵を描きたいなど、まずは模倣から始まることが多いと思いますが、撮りためて、描きためていくうちに、生活や周りの人から受けた自分としての「生き方」などが段々と形づくられるようになり、それを表現する画像やイラストに反映され、見る人が作家の気持ちをその作品から感じることで、その作品の評価に繋がっていきます。

つまりクリエイターに求められるフィロソフィーとは、その作家の生き様を作品にぶつけた結果を出せているかどうかだと思いますが、生き様と言うことだと哲学と言っては少しニュアンスが違うのかな、プリンシプルの方が正しいかも知れません。

例えばカメラで写真一枚撮るにしても対象となるのは風景があったり、人物があったり、人物の中でも女性を美しくだったり、運動しているダイナミックな体の動きを撮ったりと、自分が表現しよう、誰かに「自分が受けた感動を伝えたい」の気持ちを持ってのシャッターを切る時に、撮影する側が被写体をどのように理解し、どのように表現すべきかの意志を持つことによって作品になるか、ただの写真で終わってしまうか分かれてしまうと感じます。

その方向性が多くの人に認められ、評価されるとその人個人のブランドになりますから、持つクリエイターと持たないクリエイターとの間は、年が過ぎるにつれ大きな差が出来てくるでしょう。




職業の限界?

クリエイターとしての価値観を上げるために、クリエイティビティーと言うブランディングだけでは、認知されないと言ういかんともしがたい部分が多くなってきた。

カタログなどの立込の撮影も、スタジオ代や実際に立込にかかる費用、カメラマンなどの拘束時間や天候待ちなど費用や利便性から、Autodeskのような3DCGを積極的に使うメーカーが出てきていて、今後主流になるのではないかと考える。

見る人を唸らせる質の高い写真は、それを理解してくれる一部の人は価値を認めてくれるが、普通の人たちは安くてもそこそこのクォリティーが確保されていれば満足してしまう。

クリエイティビティーと言う質を特徴として差別化して行っても、今まで座っていた椅子が半分に減らされたような物だから、新しい椅子を探すのも大変。
昔一緒に仕事したカメラマンも、いつの間にか消えていった。

・・・昔はいれてくれるマスターの腕と、豆を煎るローストの加減に価値を認め、一杯400円のコーヒーを喜んで飲んでいたけど、今じゃマクドナルドの100円コーヒーで満足する人が多くなっているんじゃない。?

グラフィックの世界では、ADCや毎広などの賞を取ったデザイナーでも、仕事が無くて食べていくのに苦労していて、私なんかは消える前の風前の灯火。

PROなんだから仕事に関しては誇りもあるし、手も抜く事など考えもせず、外に出して恥ずかしくない物を作って来たつもりだ。それがクライアントを説得し、仕事を呼ぶ唯一の営業方法だったから。
しかも、周りを見ればもっとスゴイ人たちが沢山いて、そんな人たちの作品を見ると自分の仕事もまだまだとは思うが、社会の一部は仕事をクォリティーではなく、効率で評価しようとする。

・・・だって、デジカメ使えば誰だって雑誌に載っている人の顔“くらい”のものは撮れるし、PCで画像処理だって出来ちゃう。

PROの仕事の評価をアマチュアである担当者が自分を基準に測るから、高いお金は出せない。だってチャッチャッと行って撮ってくれば終わりでしょ?、ってなもんだ。

ひょっとしたらデザイナーにしろカメラマンにしろイラストレーターにしろ、クリエイターは広告を通じて企業というパトロンから養ってもらい、文化的にも成熟した職業だったのかもしれない。

そんなお金の流れが変わってしまったとすれば、その他大勢の分母が支えてきた文化なんてあっという間に崩壊する、それを嫌って日常の中に非日常と言う女性の裸を入れ込んだ写真で、文化を活性化しようとした篠山紀信事務所が家宅捜索されたのも、崩壊を助長する現象の一つなのかもしれない。

物を創るクリエイティブな仕事は好きだけど、職業として成り立って行かなくなるのだったら次は何をしたらいいのか、と悩み考える今日この頃である。




非道い会社が有ったもんだ

HD

現在の仕事はPCを道具として、片時も手放せない状態で仕事している人も多いだろう。IT関連やコンテンツの制作会社などは、PCが道具として立ちゆかなくなった時は死活問題になる。だからPCの環境をシステムとして組む時に、必ずバックアップを考え、専用のデバイスを用意する。

10年くらい前に揃えたマシンでは、Digtal Data Storageと言うデジタルビデオテープのようなメディアを使ったバックアップ機材を購入し、定期的にドキュメントを保存していたが、その頃のテープ一本の保存容量は12GBしかなかったし、記憶させる機械自体確か30万円ぐらいし、非常に高価だった事を覚えている。数年前もLANに繋いで使うNASと言われるHD、RAIDを組んで2TBの容量の物を購入し、データーのバックアップ用に使っていたが、30万近くした物が今では15万くらいで購入できる上、OSがレパードになって使えなくなり、まわりの人に使ってもらっている。

考えてみると、バックアップという行為に、ずいぶんとお布施をしてきた物だ。

今はHDの容量も上がり、1TBと言う容量のHDでも1万円を切るのも普通になってきた。都合の良いことにMac OS-Xのレパードから、OS自体に「タイムマシーン」という機能が付いたが、バックアップとしてはほぼ完璧だろう。

しかし未だにDTPの世界では、Mac OS-9を使って仕事をしているところもある、フロアーは違うが一緒に仕事をしている古い友人もその一人だ。

OS-9には「タイムマシーン」と言う機能は無く、バックアップはアナログ的に自分でメディアを選んでコピーを取る以外方法はない。仕事の途中でデーターを保存してあるHDが反応しなくなったら、それでお手上げだ。文章にするとたったこれだけの事だが、何だよコピー取っておかなかったの?壊れないと信じるヤツがバカだ、などと言われるのがオチで、あとは泣きながら徹夜で失ったデーターを作り直す。クライアントに頭を下げて回り壊れる前のスタート地点に必死で戻るだけだ。

と言いたい事が現実に起こってしまった。

ひと昔と違い、一台のPCで写真のレタッチから切り抜きもデザイナーが行う。動かなくなってしまったHDには、そんな仕事の足跡全てが保存してあったという。本人曰くその外付けHDは、ボタン式の電源スイッチが脆弱で何度かトラブルもあったので、今回も同じそのトラブルと考え、購入した店に連絡し対応策を考えていたが、仕事で使っている物だし、時間も節約したいと都内にあるHDのデーター復旧会社に連絡し持って行った、そのような業界や業者に対する知識も、どのような対応をするのかの予備知識もなく。

彼はトラブルの原因を電源スイッチあたりとにらんで持って行き、その箇所を診断してもらおうと考えていた、見積もりまでは無料と有ったから。

もし体の具合が悪くなったとすれば、医師は患者の顔色や痛い場所を含めて触診し、血液検査や尿検査、レントゲンやMRIなど診断装置を使って特定し、その症状に対して治療を行う。しかしそのデーター復旧会社はHDの具合の悪い、特定された根拠は示さない。と言うかHDメーカー自体も不具合の出た箇所を、特定し診断するデーターを持ち合わせてはいないのではないだろうか。

だから例え電源スイッチだけの不具合で、機能しなくなったHDも、根幹的な大きなトラブルが原因と言われてしまえば持ち帰るしか無く、ホストコンピューターに繋いであるのを、返却のために外した場合、データーが全て破損する可能性がありますと脅されれば、トラブルの原因をこちらで検証する事もできなくなり、言われるがままに復旧作業を依頼するしか選べなくなってしまう。

しかも2〜3日で復旧する場合の見積金額は、なんと39万円。高額なので難色を示すと、10日間の作業時間で25万円の見積が出たそうで、とても大切なデータだったので25万円のコースで依頼書にサインしてきたそうだ。HDのデーター復旧は以前から高額とは聞いていたが、トラブルの箇所を憶測でしか示してくれず、作業内容も開示しないのでは本当にその作業をしているのかは、外部の人間には分からない。精密な機械だから直す事は難しいかもしれないが、意図的に壊す事は簡単でもある、ベアドライブのジャンパピンを差し替えるだけで、普通のユーザーには読み取る事も出来ないだろう。その会社が意図的にそのような事をしているのでは?と訝しんで書いているのではない。あまりにも内容が不透明なところで、大きな金額を要求されているのがとても理不尽と感じただけだ。

なんだか友人は、人の弱みにつけ込んだ詐欺まがいの商法に捕まってしまったように感じる。




流行廃りは、人の気持ちの変化から

と言うか、自分の気持ちの変化と言ってもいいのかな、そこそこちゃんとした物が手軽に手に入れることが出来てくると、あまりこだわりが無くなってくるように感じる。例えばコーヒー、数年前までは朝事務所で最初にする儀式は、一杯のおいしいコーヒーを入れることから始まったけれど、最近は挽いた豆をドリップで煎れることも少なくなった。

それまでおいしいコーヒーを飲むためにはコーヒー専門店に行って、日替わりの豆で煎れるストレートサービスを飲むか、煎った豆を買ってきてドリップして飲むしかなかったが、最近は駅近くのスタンドにあるドトールや、スタバ。マクドナルドなどコーヒー店意外でもおいしいコーヒーを手軽に飲めるようになってきた。

そんなワンコインで手軽においしいコーヒーを飲めるようになったことで、コーヒーに持っていたこだわりはずいぶんと小さな物になった。マーケットとしてもこだわって購入してくれる人はまだまだいるのだろうが、デパ地下などでコーヒー豆の挽き売り専門店などが少なくなったことを見ると、ずいぶんと縮小してしまったように感じる。

そば屋なんてのもそうだろうな、鰹節などで出汁を取ってみりんと返しを入れてなど、ずいぶんと手間暇が掛かっためんつゆも、今じゃスーパーの醤油売り場の横に多くのスペースを使い、様々なブランドの製品が数多く並ぶ。それか和のファーストフードとしての立ち食いそば屋か。

昔の刑事物のドラマでよく見かけた、容疑者と刑事の取調室でのやりとりの中でも、容疑者に食べさせるのは近所のそば屋から出前を取ったカツ丼だったが、これからはどうなるのだ? 刑事がコンビニで買ってきたおにぎりとか、弁当やパンになるのか?。まさか給食センターが配達する弁当じゃないよね。

これらすべて、長い間訓練し作ることに慣れた職人にしか許されなかった職域だった。その職人しかできなかった物が、コモディティー化のおかげで手軽に手に入れることが出来るようになった事で、我々庶民もおいしい物を手軽に、安く手に入れることが出来るようになった訳だけれど、多くの職を失った人もいることも事実だ。

だからと言って今まで入手するのに大変な労力が必要だった物が、簡単に入手できるようになった事に反対している訳ではない。昔から人に求められる仕事は、社会の変化と共に輪廻を繰り返すように変わってきた。これからもその流れは続くだろうし、実際にデザインの世界ではすでに始まっているように感じる。

また、通信環境のインフラ整備がこれだけ進んでくると、物を売ることで利益を得るのではなく、そのサービスを提供することで利益を得る商売が多く出てくると思われる。たとえ士業として法律の下で成り立っている弁護士や、会計士もその例に違わないのではないだろうか。

今はソフトを作り販売する会社も、定期的にバージョンアップが必要なエクセルやワードと言ったソフトを販売するよりも、Googleの提供するドキュメントや、スプレッドシートのように、クラウドコンピューティングでサービスを提供してもらう方が、利用する側としては利便性が高い人もいるだろう。

会計事務所が月々所定の金額で顧問契約し、決算時にも別に決算料を徴収される顧問会計士という制度よりも、先生に定期的に訪問してもらわなくても、光熱費に近い安価な金額で Web上の帳簿を監査・アドバイスし、後は自動的に決算書類ができあがると言うような、簿記に近い物と経営コンサルティングに分化すれば、法人化していない商店など自営業者もサービスに乗るのではないか?。

まぁ、セキュリティーや監督官庁などいろいろな問題があるのは承知の上で、会計というサービスを一つの例として、社会から求められているであろうそんなサービスを新たに起こせば、新しい職域が生まれるのではないでしょうか。




差別化

昨日は地元中学に通う長男と次男の文化祭、地元自治体のホールが老朽化のために取り壊されることになったので、中学生にでも使わせるかと文化祭をそのホールで、と言う事で今まで学校で行われていた文化祭をこの自治体のホールで行う事になった。

中学の文化祭なんてお化け屋敷や模擬店、体育館では軽音楽クラブがHit曲を演奏すると相場は決まっていたが、ホールで行う事で生徒が発表する物は各クラスの合唱コンクールだけとなった。いままで学校で行われていた文化祭には一度も足を運んだことも無かった、来られても息子達は学校生活というプライベートを覗かれるようで恥ずかしいから、来るなよと言ってはいたが、わざわざ自転車を飛ばして見に行ってきた。

その内容については特に書くことはありませんが、自治体のお役所に隣接するホールと言うことで、地理的な場所として行政を始め近くには駅もあり、人も集まることから商業に関しても自治体を代表する場所であることは、多くの人も認めるところでしょう。

実はそんな地域だから文化祭での合唱を見るついでに、家の近所にあるスーパでは手に入れることの出来ない商品を手に入れるため、そのホールの近くにある大きなスーパーの食料品売り場で手に入れる事を目論んで行ったのである。

だいたい大手スーパーはマーケティングなどの理論的なマネージメントは長けており、お店の持つ商圏に居住する住民の生活者特性から商品構成をバイヤーが決める。だから住む場所を捜す時は、その場所の近くにあるスーパーの品揃えを見れば、そこに住む住民の世帯収入や家族構成、文化的レベルが見て取れる。

その店の食料品売り場の野菜売り場一つ見ても、生鮮の洋野菜やハーブ類を置いてあるか、加工したカット野菜やサラダ向けの野菜の品揃え、フルーツの売り方と品揃えがどんな物か、また総菜コーナーでの売り方や品揃えにしてもだいたい生活者は特定できる。

しかし、その店に探していた物はなかった。

歩いていける売り場面積も小さく、食品専用の近所のスーパーにはなかったが、少し足を伸ばして自転車で行く距離のスーパーにはある。そのスーパーと今回行ったスーパーの売り場面積はほとんど同じ、距離としてはまぁ5kmぐらい離れているか。一つは軒並み破綻した大手スーパーの中でも生き残る、コンビニ大手が店名に名前を連ねるスーパー、もう一つは隣接する都道府県に10店舗ぐらいの店舗を持つ、リテール商圏を対象にしたスーパー。

しかし品揃えからして一方のナショナルスーパーは個人的に落第である。食品売場の構成としてはスーパーの名前にも入っているコンビニの商品構成に生鮮三品など毛の生えた程度で、地域の生活者を特徴的に表す商品や、一部の人の求める限られた商品を切り捨てているところを見ると、店のバイヤーの意見よりも地域を統括するであろう、本社に近いバイヤーがマーチャンダイジングを決めていると考えられる。

反対に「この程度の品揃え」と私の居住する自治体に住む人たちの生活者特性が特定された事で、スーパーから見た居住者の程度が低く見積もられる事は、企業に対する信頼感さえ揺らぐ感じがする。

日々の生活に必要なだけの生活必需品だけなら競合店も多く、非常に狭い商圏になってしまう。この店に行けば(たぶん)求めている商品があるだろう、と思わせる事で集客すると商圏は広がる。

顧客の求める品揃えをする事が差別化の一つの要因ではあるが、潜在的に求める事をうまくつかむ事で、その差別化をより大きくする事が出来る。確かに揃えていても売れなければ売り上げ効率として悪くなるのは理解できるが、流通に関する理想や社会との関わり方と言った、企業の根幹とも言えるプリンシプルポリシーによっても変わるのだろう。

探していた商品が特別な料理に使う希少価値のある商品ではない、パルメジャーノチーズに加糖されていないコンデンスミルク(エバミルク)のたった二つである。




廃業の波

先日、昔から付き合いのある、以前は画材屋さん、現在はPC本体からソフトウェア、OA機器からそのサプライまで取り扱う会社の、これまた古い付き合いの営業マンが来て話をしていった。

古くは学生時代、学校の名前を店頭で伝えると、筆やポスターカラーなどの画材が2割引になることから付き合いは始まり、就職したデザイン事務所では画材から版下を作る台紙から、紙焼き用の製版カメラ・写植や紙焼きを貼るラバーセメントと言った素材まで納入し、近年ではDTPの環境にあるPCからそのアプリケーションソフトなど、この仕事に係わる全ての機材から材料までを取り扱う会社で、我々のようなデザイン事務所や、勉強中の美大生にとっては切り離せない存在だった(既に過去形か?)。

そんな長い付き合いの営業さんが、近くまで来たからと電話をくれ、この数年来続いている業界の低迷ぶりの愚痴を語り合った。・・・近くに来た理由も、ここのご近所で事務所を営むデザイン事務所が廃業することになり、その後始末のためだという。

広告媒体であるTV-CMや新聞・雑誌などメディア価値の変化で、まるで広告代理店の業務範囲が変動したように仕事の流れが変わり、仕事量が減った中堅制作プロダクションなどのまだ体力がある各社が、競争するようにディスカウントしたコストで仕事を吸い上げ、全体の出稿量が減ったぶん、体力のない制作プロダクションにしわ寄せがきたのだろう。

ウチの事務所もそんなしわ寄せを受けているひとつで、社員も雇わずに一人でやっているからまだ生き残っているのだろうが、維持していくだけでも綱渡りをしているようだ。

こんな現状を客観的に見ると考えられる打開策は、1.)体力のあるプロダクションと同じようにディスカウントとプレゼンで仕事を取ってくるか。2.)比較的動きの落ち着いているエディトリアル系デザインにアプローチして、プレゼンとコストで仕事を取ってくるか。3.)自社の持つ能力を活かし、別のアプローチから新しい収益体制を作る。・・・この3つが考えられるだろうか。

とは言え、誰にでもすんなり出来ないのも確か。理由を挙げてみるとこんな所だろうか。

1. は、体力も人的リソースも小さい事務所で行うには大きなリスクが伴う。
2. は、比較的保守的な繫がりで出来ている組織の中に、入り込めるコネや繫がりをどうするか。
3. は、商品開発と言った所から、技術革新を含め日頃から考えておかなければいけないことだが、一朝一夕に出来る物でもないことは確か。


と、出来ない理由を付けて自分に言い訳しながら、ラッキーが空から振ってくるのを待っていても将来は見えない。打開策としての方向は以上の3つ有ることは、おおむね間違ってはいないだろう。3.)の商品開発にしても、一から新しい商品を開発すると言うよりは、現在有る技術に切り口(視点)を変えた“別の何か?”を組み合わせることの方が近いだろう。また、業界の慣例的なクライアントの対象を変えて、自分の持つ技術で商売として成り立つのか考えてみるのも、違う視点からビジネスを考える良いチャンスだ。

私がいるグラフィックデザインの業界では今まで、広告代理店や印刷屋が間に入ったり、企業から直接依頼を受けるなど、B to B が仕事の流れだった。個人として仕事を依頼する様な需要はありませんからね、個人としてデザインの需要はないかもしれませんが、自分の持つ技術で喜んでいただける物は・・・?。

見つけましょう、そんな隙間産業。こんな時代に必要とされているのは派手にホームランをかっ飛ばすことではなく、地道でもヒットを放ち、ビジネスの可能性としてのシード(種)を見つけることです。




モラトリアム・・・か。

久しぶりのブログです。・・・一月以上ご無沙汰してしまいました、9月の1ヶ月間なんだかんだと忙しく過ごしておりましたが、8月30日の衆議院議員総選挙で政権が自由民主党から、民主党に政権が交代し、今まで自民党が維持し続けた行政を初めて他の政党が担うことで、どうなることやらと見ていましたが、選挙戦の時は何だか頼りなく見えた鳩山総理も、サミットや国連での演説など、時を経るにつれ堂々と見えて来るからフシギです。

人は生まれついた時に親から受け継いだ性格もあるのでしょうが、置かれる立場によって人格なども変わってくるのでしょう。

しかし組織が入れ替わるだけで、政治の世界はこうも変われるのでしょうかね、自民党時代は選挙の時の公約などで変化を謳っていても、いつの間にか元の鞘に収まってンじゃない?と感じられるほど、変化を感じることは少なかったのですが、既得権に縛られない組織に変わることで、これほどダイナミックに変わっていけるんだ。と、感動すら覚えます。

立場や環境によって変われる人間は成長して行くのでしょうが、変われない人間は?

環境の変化に対応出来ないことを「茹でガエル」などと揶揄しますが、水の中にいるカエルは、水の中に熱いお湯を注ぎ、水温が大きく変わればビックリして飛び出しますが、水が少しずつ熱くなるような穏やかな変化には飛び出すようなことをせず、熱くなったお湯の中で茹で上がってしまうことから来ているそうです。

世の中は不況です、いろいろな原因も考えられるでしょうが、やはり変化する社会のニーズや、生活者の意識の変化に、今までビジネスとしてやってきた事が合わなくなってきたのが、原因なのでしょうか。

長い年月、ひとつの事業として仕事を続けて来れば、おいそれと大きく会社という名の船の舵を切ることは難しいのは理解出来ます、でも今回「不況である」と言われる原因は、微修正的な舵の切り方で乗り切れるほど、簡単な物とは思えません。

魚の居なくなってしまった池で、他の人と同じ釣り竿で釣れていた魚が、釣れなくなり、人よりも長い竿や、実物のエサに近い動きをする新しいルアーで、少なくなった魚を釣ろうという努力もある程度の成果は見込めるのでしょうが、一番の原因は魚の少なくなった池であり、以前のように釣ろうと考えれば魚の沢山居る池に移るか、今の池を沢山の魚が住める環境に整え直す事が現実的ではないでしょうか。

「3年間借金の返済を猶予する」という亀井静香金融担当大臣の言葉は、この時期に個人的にはとても嬉しいのですが、魚の釣れなくなった池に魚の替わりに「かまぼこ」を入れ、そこで釣る人を少しでも長く留めることは出来ても、それを過ぎてしまえばまたみんな魚が釣れなくなって、いつの間にか一人も居なくなってしまった。になりかねません。

「3年間借金の返済を猶予する」と言うのは目的になってはいけないと思います、そこで釣る人が魚の沢山居る池に移るための時間稼ぎだとキチンと説明しない限り、多くの人から賛同は得られない言葉なのではないのでしょうか。

猶予されたからと、ぬるま湯に浸りきっていれば「茹でガエル」に成りかねません、猶予されたことをバネに、次の池に飛び込む準備をしましょう。




ペルソナを読み違えた結果では?

昨日投票された衆議院選挙は予想されていたとは言え、歴史に残る結果なのでしょう。しかし今まで行われていた選挙を見ていると、事前に大勝を報道された時と、実際に投票された結果を見ると、今回ほど予想が当たった事がなかったように感じます。

選挙を一週間後に控えた新聞各社が行った調査の結果として、民主党300議席を超える大勝の文字が躍りましたが、実際には過半数の議席は取るにしても、300議席を超す勝利は無いのではと感じていました。

前回の2005年に行われた第44回衆議院議員総選挙では、小泉首相の郵政民営化の是非を問う選挙で、投票率も67.51%と高く、第41回・第43回総選挙で投票率が50%台に落ちた近年の総選挙の中でも、今回は69.28%と、70%に届きそうな投票率で、国民の選挙に対する意識も高い物となりました。

今回の選挙結果で、落選した議員さん達が原因を「政権交代の大きな波に抗う事が出来なかった」などと申していましたが、確かにそのような流れはあったと思いましたが、もっと大きな原因は別の所にあるのではと感じました。

前回の第44回総選挙では、小泉首相というリーダーが、変革を拒む旧主派と言われ、足を引っ張る議員達に国民の意識を問うた選挙で、結果として変革していくという政策に国民は賛成した結果だったのです。

やはり社会が変わっていくにつれ、それまでのシステムが古くなったと感じられたのか、既得権を手放そうとしない組織や人に対しての不公平感を是正して欲しかった。と言うのが国民の求めている物だったんだろうと感じます。

結果として郵政民営化を成し遂げた所で小泉首相は退任し、後を引き継いだ安倍首相は何が原因だったのかは判りませんが、健康上の理由で短くして辞任し、続く福田首相もよく判らない理由で辞任、続く麻生首相は国のシステムの変革などドコへ行ったのか、景気回復と対選挙で支持を得るつもりだったのか、13兆円と言われる補正予算を通した後に総選挙に挑み、歴史的な大敗を喫しました。

今さらですが、小泉内閣を引き継いだ安倍首相と自由民主党に国民は期待もしていたんだろうと思います、しかしその後を継いだ福田首相と麻生首相が変革を棚上げし、結局古い体質の政治に戻ってしまった事で国民はそっぽを向いてしまったのではないでしょうか。

国民の多くは各政党が出すマニフェストによる政策を参考にはしたでしょうが、具体的に比較して投票したのではないと思います。結局古い体質に戻るしかなかった自民党に見切りを付けた結果が、今回の選挙の結果だったのではないでしょうか。

基本的に旧社会党や、連立を組むであろう現社民党の政策は、大きな政府です。政府は税を徴収し福祉や社会保障に回しますが、一般的にそれを所得の再分配化とも言い「ジニ係数」という数字で国民の平等の程度を表す事が出来、OECD加盟国の中でも日本は数値が高く不平等とされるアメリカやイギリス、社会保障が充実し平等的と言われるデンマークやフィンランドとのちょうど中間あたりにあります。OECDのデーターは少し古く1990年代後半のデーターです。

今回政権を取った民主党がどのレベルの国を目差すかの舵取りは目的となり、手段として各政策が発表されるでしょうが、忘れて成らないのは国民の求める「社会が変わってしまった事で陳腐化してきたシステムを変革し続ける事」「既得権を盾に不平等な体質を修正する事」と言う国の舵取りをしていくための大きなフレームワーク・本質は忘れてはならない事だと思います。

これを見誤り、小手先の手段ばかりで国民の求める本質を見失えば、次回選挙の結果で野党に戻ってしまう可能性も胸に、与党として手腕を発揮してもらいたい物です。




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