RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

サービス業としてのデザイナー

バブルの頃などはコピーライターが人気の職業でもてはやされたこともあり、同じ広告の制作という切り口からか、デザイナーもカタカナ職業としてもてはやされた時期がありました。でも平たく考えると、デザイナーも紙面の構成を考える一つのサービス業。

今でもそうですが、見てくれる人たちにどれだけ共感してもらえるか、ビジュアルの作り込みや完成度に強いこだわりを持って制作していました。でも以前まではCGや3Dなんて有りませんでしたから、イラストに凝ったり、ミニチュアを作ったりと、手間もお金もかかる物でしたが、今はデスクトップのPCと、ソフトを使いこなすスキルさえあれば、どんな荒唐無稽なビジュアルだって作り出せちゃいます。

デザイナーの作り出す制作物の完成度やクォリティーの高さは、そのまま自分をアピールするツールになり、それを見たクライアントや代理店から仕事の依頼が来ていましたが、今そのような形で仕事を取っている事務所は一握りだけで、多くのデザイン事務所は涸れてしまった川の流れを見、財布のヒモを堅く締め、雨が降るのを祈っているかのようです。


なんだか昔は街に沢山あった喫茶店の辿った道に似ています。

以前は若者文化の発信地的な扱いで、一日に何度も休憩や打ち合わせで利用し、結構個性的なランチを出してくれたり、コーヒーの専門店として特徴を上手く出したりと、一つの街でも色々なタイプの喫茶店が覇を競っていました。

ネルドリップで入れたコーヒーや、水出しコーヒー、コロンビアやグアテマラというような産地別のストレートコーヒーなど、こだわりと特徴を出していけば、高い家賃を払う一等地でもちゃんと営業できていました。でも今同じような形でお店をやるには、家賃や従業員の給料などの固定費を極力下げ、自宅を改造したお店を家族で切り盛りするような喫茶店しか残っていません。

コーヒーを飲みたければ画一的ですが、決まった条件ならば同じ味を出すことが出来る機械で、決められたマニュアル通りの入れ方をした、比較的な安価なコーヒースタンドや、ハンバーグショップが出すコーヒーで十分なのでしょう。


デザイン事務所も同じように、制作物の飛び抜けたクォリティーよりも、どちらかと言うと誰もが安心できる普遍的なクォリティーで、誰がどのようにして作ったかよりも、アルバイトでも誰でもかまわないが、そこそこのクォリティーを比較的安価で提供してくれるデザイン事務所しか、残っていけないのではないでしょうかね。

涸れた川はもう元のように水は流れることはないでしょう、水の流れは変わってしまったのです。

やれやれ、何か新しいことを始めないとだめだな。やっぱり。




フレームワークとは?

ビジネススキルに必要なフレームワークはいろいろな方が書かれ、本になっていますので参考にしていただくとして、Web上では「社会人なら押さえておきたいフレームワーク思考 - livedoor ディレクターブログ」に詳しく書かれていますのでご参考に。

基本的にビジネスに求められているフレームワークと、広報に求められているフレームワークとでは多少ニュアンスが変わっていると思います。

ビジネスに求められるのは戦略を進めるため、メンバー全員がコンセンサスを取るために書いたMap、自分がドコにいてドコに向かおうとしているかの解りやすい地図。枠組みと一言で言ってしまっても、なかなか漠然として理解しにくいかもしれません。

広報に求められるそれは、プロジェクト内でのフレームワークよりもステークホルダーに理解してもらいやすい、プリンシプルモデルと言った方が近いかもしれません。プリンシプル=principleという単語を辞書で引くと、「主義、原則」などとありますが、日本で考える「主義、原則」よりも強い印象で使われ、絶対に譲れない原則・ポリシーと言った方が近いでしょうか。

なぜ広報にはフレームワークという枠組みだけではいけないのかというと、製品や企業のブランディングに係わっているからです。自分の「主義、原則」を守る、つまり自分の筋を通すという表現を貫かないと、考え方がコロコロと変わる、つまり信用がおけない奴とステークホルダーに感じさせてしまう事は避けなくてはいけません。

そのPRを必要とする商品や企業は、社会的にどの位置にあり、どの様に考え判断する事で、将来どの位置に行く事を目的としていると言う、現在の自分の姿と未来の姿をプロジェクトに係わるスタッフが共有し、明確にする事でPRの手段が決まり、プリンシプルモデルを踏襲した表現を繰り返し積み重ねる事で、揺るぎないブランディングが出来ていきます。

例えば友人でもそうですが、人気が取れそうな人の意見にコロコロと考え方を変える友人よりも、自分の信念をキチンと持った友人の意見の方が信頼感もありますし、長い時間を一緒に過ごせる良い関係になると感じます。けして一概に一度決めた事をコロコロ変えるなと言っているのではなく、借り物の他人の意見に左右されず、自分の信念を持って判断し、舵を取れ。と言いたいのです。

その企業がどの様なプリンシプルモデルを持っていて、そのモデルが良いのか悪いのかの答えは、対象となるマーケットが求めている物だったら、全ての人に支持されなくても良いのでしょう。PRを続ける事でブランドを構築していくのには、このような作業を繰り返し続けていく事で、マーケットに認められていき、ブランドとして成り立っていきます。




こぢんまりとキレイに収まって。

以前のエントリーにも書いた事だが、最近新聞やテレビCMで心に残る広告がない。古き良き時代を思い出して「あの頃は良かった」などと愚痴りたいわけではない。その昔学生だった頃はグラフィックデザインは芸術作品とどう違うのか、デザイナーは芸術家なのかアーティストなのか。など学生らしい青臭い議論をした事もある。

確かにデザインという物は対象に情報を伝える事が目的であるから、沢山ある情報の中から伝えるべき必要な情報を整理し、限られた紙面の中にレイアウト出来ればそれがデザインである。企業戦略の手段とすれば、マーケティングから導き出されるビジュアルとコピーを使って表現する事は、非常に理にかなっており、誰からも文句の付け所はない。

しかしそのマーケティングから導き出されたモノは、多くの人がそれを望んでいると言う最大公約数的な数値としての評価であり、想定内のビジュアルで、コピーである。人間の心にある強く残る思い出は、けして普遍的な日常よりも、非日常的な苦しかったり悲しかったりした事の方が、後になって良く覚えていたりする。

対象のマーケットが望んでいるであろう表現をそのままストレートに出すのではなく、期待を一歩、イヤ半歩くらい先に行くような、期待を少し裏切る冒険を感じさせる表現の方が、見てくれる人たちの記憶にくさびを打ってくれるのではないだろうか。

正直言ってコーポレートガバナンスやマーケティングを理由に、自分が余り高く飛ばないように自主規制し、差別化と言いながら他社と大きく表現を変えずに、横並びの表現で満足している事はないか。何だか手段のためにモノを作っているように感じる、企業の考える理念を元にそれを実現するために目的が作られ、目的をかなえるための手段として広告や広報物があるのではないのか。

最近のWebを含め様々なメディアを使った広報物の中で、この「実現するための目的(フレームワーク)」が見えている企業は、私が思い出す限りファーストリテイリング社(UNIQLO)ぐらいしか頭に思い浮かばない。

確かに景気や社会情勢がジェットコースターにでも乗るように激しく動く中で、余り思い切った冒険は出来ないのかもしれないが、100年に一度の危機を 100年に一度のチャンスとして、様々な事にチャレンジする企業も出てきている。そんなチャレンジしている姿を周りの広報物に埋もれない、記憶に残る広報物が出来るように、リーダーはフレームワークを構築しなければいけない。

記憶に残る広報物をを生み出すのはマーケティングのコンセンサスではなく、こう表現したいというリーダーのフレームワークや信念であり、その表現が正しいかどうかは、事後的に市場で実験するしかない。他に比べ一歩前に出るという事は、整理し、キレイに見せるといった技術やテクニックではなく、心を動かすような美しさを持つアートに近いモノだと思う。




幸せとは何だ?

民主党マニフェスト

若い頃はそれこそ朝から深夜まで仕事をして、月末の請求書を切る時に“これだけ仕事させてもらい、稼がせていただいてああ幸せだなぁ”なんて思った事もありました。しかし現在はその頃に比べ売上も激減、私の周りにいる個人事務所のデザイナーもみんなため息ばかり、法人にしている意味もなくなっているので、個人事業主に戻る人もチラホラ。

5年くらい前からは余り景気のいい話は聞こえてこなかったが、特に今回の金融危機以降はどの友人達に会っても、事務所を閉鎖しただの不景気な話を聞くばかり、みんな日本の未来に明るい光が見えていない。

さらに暗い話もある、クリエーターとか横文字職業ともて囃されていた職業でもあったので、友人のデザイナー数人は幾つになっても自分の腕一本で稼ぐ、と言う自負からか、社会保障である公共年金に加入していなかったりする。

そんなもん自分の老いを甘く考えていた自己責任ジャン、と一言で片付けてしまうのは簡単だが、社会の片隅で職人が細々と仕事を続け、食べていく事が出来なくなったこの国の現状に驚く。つまり下々のクリエイターが仕事するだけの量が社会に流通していないのである。なぜか。社会に対しての信頼感が薄れ、明るい未来を経営者が描けないからだ。

「だってよ、そんなどうなるかわかんねー物に金使ってみてもョ、ドブに金捨てるだけだべョ、今は何があっても良いように自己資本を高めておくのよ」なんて言っているかどうかは判らないが、こんな感情が国民に蔓延し、スムーズなお金と仕事の流れを阻害しているように感じる。

と言う所で衆議院議員選挙ですね、以前のエントリーにも書きましたが、私のグラフィックデザイナーと言う仕事には締切があり、その時間までに形にならなければご飯を食べる事(お金を頂く事)が出来ない仕事で、なおかつ個人のスキルの差が大きく、人気デザイナーに多くの仕事が回るという、労働者の権利などと声高にかかげる、時間を切り売りする仕事ではなかったので、組合という組織に(社会的には必要なのでしょうが)共感出来ずにいます。

でも先日、民主党のマニフェストが発表されましたね、素人の私が見ても突っ込みどころ満載で、政権を取ったら4年後の鳩山代表の政界引退は確実?と思わせる項目が・・・。多くの人も言われるように薔薇色のばらまきで、ツケを次世代に回すのか、と言う疑問も。

だって2009年度予算を見ると、税収の歳入が46兆円で歳出が102兆円、収入が46兆円しかないのに102兆円を使っていて、普通の企業だったらとっくに倒産していますって、しかも財源もないのにさらに高速道路の無料化や、子ども手当や高齢者医療制度を廃止したりと、さらにばらまくんでしょう。

私たちの子ども達に借金のツケをみんな追いやって、明るい未来がやって来るのか?このマニフェストを見ても、国に対しての信頼感は感じられないし、将来全国民が貧乏に苦しむ姿は想像出来るけど、国民が幸せになれるのか感じられない。

とは言え国民の信頼感を失わせたのと、プライマリーバランスを崩したばらまきと予算を通したのは、麻生政権と現在の与党政権です。今さら、終わった団体に国の舵取りは任せられないと感じますが、今月中くらいにはこちらからもマニフェストが提示される事でしょう。何だかこんなに真剣に各政党の政策を読み、比較して選挙しようなんて考えたことは今まで一度もなかったな、国民の関心を政治に向けさせた事だけには麻生政権を評価するけど、それじゃ本末転倒だろ。

確かに支払期日までに現金が無くて、いろんな所から借金したり現金を工面したり、売れる物は売ってしまったりと貧乏な生活は大変ではあるけれども、富=幸せではないような気もする。各政党が掲げるマニフェストも国民が「幸せに暮らしたい」という目的を遂行するための手段だろ、その目的の「幸せ」の質を話し合わないうちに手段だけ提示されても、どれに決めたらいいのか解らない、まず政党が問わなければならないのは、どの様な「幸せ」を国民と共に目差すのかのフレームワーク(またはプリンシプルモデルと言うべきか?)が必要なんじゃないのか。

今の企業経営を見ると様々なメディアを使って社会とコミュニケーションを取り、いわゆるマーケティングの観点から顧客の求めるペルソナを見極めていくのだけれど、与党として多くの国民から求められるペルソナを見極める必要があるのは政党なのかもしれない。

支持基盤が限定される政党は、その支持基盤の求める事を政策として挙げればいいのだけれど、与党になると国民全体の最大公約数を求める必要があるので、考え方の多様性を認めつつも、効率的かつ合理的な考えでフレームワークを策定し、それに沿う形で政策という手段を提示するのが筋だろうな、選挙が近いと慌てて作る物でもないのだが。




コミュニケーションツールとして成功する方法

一言でコミュニケーションツールと言っても、対外的なステークホルダーに向けたパンフレットから、投資家に向けたIR情報、コンシュマーに向けた広告やパンフレット、社内で働くスタッフ同士のコミュニケーションを目的とした社内報など、印刷媒体から放送、Web媒体などあらゆる媒体を使いコミュニケーションされていますが、あなたの伝えたいと考えている物は相手の方に伝わっているでしょうか。

Web媒体でしたら、大まかな製品紹介ページから興味を持つ人だけが見に行けばいい、情報を深く掘り下げたページを附加する事は、費用的にもわずかな金額で済んでしまうでしょうが、放送媒体や印刷媒体などでは附加する事でかかる費用が大きく左右されてしまいます。

費用が掛かってしまうという事もそうなのですが、人間は情報の中でも特に文字情報については、自分の求めていない情報はノイズとして判断し、文字や文章、特に漢字ばかりで表現された文章を理解しようとしません。もちろん様々なステークホルダーに対して“伝えたい”と考え制作するのでしょうが、ステークホルダーが興味を持つ分野や項目を見間違えると、読んでもらえなかったり、反対に物足りなく感じたりと、情報を伝える道具として成立しなくなってしまいます。

一番陥りやすい失敗は「出来るだけ正確に伝えないと」とか「これほど魅力ある製品を伝えるために、様々な切り口で表現した方が」などと、情報を詰め込みすぎた結果デザイン的にも整理出来ずに、読みにくい物になってしまう事です。

相手に伝えるためのツールを作るために、まず一番力を入れて決めなければいけないのは情報を伝えたい人の人物像をしっかりと描く事です。

もちろんプロのディレクターと呼ばれる人たちは、ターゲットとするステークホルダーの最大公約数的な人物像を頭に入れ、何を、どの様に伝えるのが合理的で効率がよいかのフレームワークを組み、それに沿った形でビジュアルを決め、文章を考えるなどの仕事を進めます。

そのターゲットの人たちは写真やイラストを多用した方が理解されやすいのか、象徴的なインパクトのある写真1枚で表現すべきか、キチンと起承転結で理解出来るように、ストーリー仕立てが良いのか、ターゲットの人たちの育ってきた環境や、年齢による文化的な背景などでも変わってくるでしょう。

そんなターゲットのイメージが出来上がったら、自分(企業)との比較をし、ターゲットの人物像との関わり方を考えます。ターゲットに対し自分はオピニオンの立場なのか、それとも同じ土俵でみんなで盛り上げていこうと考えているのか。

企業の独りよがりな情報伝達では“相手に伝える”という、ツールとしての機能に達していません。相手の人物像をしっかりと把握し、受け入れてもらえるように考え実践する事で始めて「コミュニケーションツール」として形をなすのです。読みにくい物はそれだけで読んでもらえないと考えるべきで、文字で言えば大きさから行間、文字同士の詰まり具合などでも読みやすい、読みにくいは変わってきます。

先日のエントリー「広報物のフレームワークは重要ですよ」でも書き込みましたが、成功するための王道として、企業側ではどのターゲットに対して何を伝えるのかといったフレームワークをしっかりと決めて企画し、読みやすくするためのテクニックを持ったプロに頼むのが一番でしょう。

二回続けて「フレームワーク」の重要性を書きましたが、最近回ってくる仕事がこのフレームワークの詰めが甘く、代理店を通してクライアントにもキチンと話をしないと、広報戦略の一つのツールと言う目的から外れてくると何度も言っているのですが、営業が若い人で重要性を理解していないのか、これ以上自分の仕事を増やしたくないと考えているのか解りませんが、半年が過ぎようとしても改善される気配は無し。

出来たばかりの若い会社も良いけれど、年寄りは年寄りなりにフレームワークを合理的に進めていける力を持っていますからね、制作しているコミュニケーションツールが目的を果たしていないと考えられるようでしたら、年寄りにも声を過開けてください。(笑)




広報物のフレームワークは重要ですよ

企業においての広報物は、ステークホルダーに対して企業を紹介し、認知してもらう事が初歩的な意味だと思います。広報物と一言で言ってしまっても製品の広告物やパンフレット、会社案内やホームページなどは目的も理解しやすく、何を意図として伝えるのかと目的も整理しやすいのですが、PR誌や社内報など定期的に情報を伝える物に関しては、だんだんと意味が曖昧になってくるのか、それとも作っていく内に意味が見えてくると思って作っているのか、作る事への目的もなしに試行錯誤ばかりするのは、目的地も決めずに街中をただフラフラと歩き回るように、ただ疲れて消耗するだけです。

具体的に言うと、対象となるステークホルダーに対して「何をどの様に伝え、感じて欲しいのか」と言った、思考的な枠組みが不完全なまま制作すると、目的が達成出来ないばかりか、制作費や印刷代など無駄な出費になってしまいます。

若い広報担当者のOJTとして、スキルアップを求め制作するといった事もあるでしょうが、トレーニングにしても何に対してのトレーニングなのか、意思決定のためのコンセンサスづくりならば、いくつかの方向性に対してのメリットやデメリット、リスクと言った物をロジカルな枠組みとして構成出来るのか、ただ突っ走るだけでは担当者のスキルアップなど求めようもなく、逆にいい加減な仕事しかできなくなってしまう社員を増やしてしまうだけです。

広報と言う仕事は企業の事をステークホルダーに伝え、深く理解してもらうと共に、ステークホルダーの考えを知り、理解する事で、企業の永続的な発展に繋げるため、マネージメントして行くために必要かつ重要な活動です。

最近発行する印刷物のレイアウトなど、頻繁に変化する、見た感じが毎回違う、など統一したイメージが感じられなくなったら、一度フレームワークはどうなっているのか疑ってみるべきです。

誰もがデジカメで撮影した写真も、キーボードで打ち込んだテキストも原稿として使えますし、アドビのイラストレーターのソフトがあれば印刷原稿さえ出来ます、でもただその場所に行ってそのままの写真を撮るだけよりも、写る背景が整理されているかを気にし、じゃまになるゴミや雑然とした荷物を片付け、掲示物を整理するなど見る人の事を考えて撮影していますか。

言いたい事、伝えたい事はコレとコレだからと、冗長な文章をダラダラと続けていませんか、箇条書きにする、表やグラフを添付するなど、見る人が見やすい原稿になっていますか。

制作側の自己満足だけで果たして相手に伝わるのか。

一度部内のグループミーティングなどで意見を出し合い、伝えたい事が伝わる構成になっているのか成績を付けるように評価し、求める物が出来ていない時は何をどう変えて行けばいいのか、写真やテキストなど各パーツのクォリティを上げるのか、デザインや色遣いの切り口を変えるのか、誰が責任を持って進めるのかを具体的に決めていかないとフレームワークは作れません。

社内スタッフで出来ないのだったら、外部の力を借りるのもひとつの手です、目的もなく制作費をただ垂れ流すよりも建設的ですよ。




情報流通に変化があるのだから

「メッセージを伝えるために。」でも書いたのだが、人と人、人と社会のコミュニケーションで流通する情報量が、それまでの常識からは考えられないほどの量で増え、しかもその増えている情報のほとんどが、インターネットをメディアとして利用したWebコミュニケーションだと考えると、現実の社会の他にWeb と言うもう一つの社会が出現したと考えられる。

なぜこのように短期間で圧倒的な量が普及したかは、やはり簡単で便利だからだろう。だから企業のPRを始め、SNSと言ったコミュニティーや、ブログなどのプライベートメディアなど、誰でもが情報を発信し共有出来る。

これをみんなに知って欲しいと誰彼構わず情報を送りつけると、SPAMになるのは当たり前、そこに欲しい有益な情報があればサーチエンジンを使って情報を必要とする人がアクセスする。

今日7月21日の午前中、閣議決定で衆議院の解散が決まった。Wikipediaで公職選挙法について見てみると、『公示日から選挙日が終了するまでの間、候補者の名前の入った選挙運動(投票依頼)目的の文書図画については、選挙管理委員会が発行するシール又はハンコのついた一定枚数の文書図画しか発行できない。総務省はWEBページ、ブログ、電子メールも「文書図画にあたる」と解釈し、なおかつ、WEBの更新については新しい部分だけでなく過去のものも一体のものとして頒布・掲示したことにあたると解しているため、同省は「候補者は選挙期間中Webサイトを更新できない」という立場をとっている。』とある。

全ての国民が利用していない、いわゆるネット弱者へ配慮しての事なのだろうが、先日の『基準て何?』のエントリーに書いた統計数理研究所の集計結果には、 20〜40才代で「自宅PCでインターネット使うか」の調査では68%が使うと答えている。もちろんインターネットを使うのはPCだけではなく、若い世代は携帯からの利用を含めれば、ほぼ全員がアクセス出来ると考えても良いかもしれない。

決められた時間だけに政見放送を視聴し、立候補者の意見を聞くのが果たして平等な行為なのだろうか、むしろ聞きたい時に聴きたい人間がアクセスして、立候補者の考え方をしっかりと聞く方が平等な行為といえないのだろうか。

政治家に対する献金にしても、個人献金が習慣となっていない日本では、企業や団体に頼らなければならないのだろうが、PayPalなどWebでの決済を使う方法や、政党や個人が考えるマニフェストを印刷製本し、ISBNさえ取ってしまえばAmazonで書籍として購入する事も出来る。購入代金の○%は献金として扱うなどの明細を書いておけば、個人からの献金も敷居が下がるのではないだろうか。

現実的に今年7月には、Googleがアメリカの大統領選で選挙関連情報を解りやすく提供するプロジェクト「Googleモデレーター」の日本版「Google 未来のための Q&A」が始まったし、数年前からYahoo!のカテゴリーには「みんなの政治」が加わり、ポータルサイトにて意見の集約も始まっている。まだ実験段階かもしれませんが、これが拡がり各立候補者の考え方が良く理解出来るようになれば、国のためにも議員さんのためにも、何より国民のために良い結果が出ると考えます。

政治をめぐる意識の変化

この10年以上の衆院総選挙での得票率を見ると、'96 第41回 小選挙区59.65% 比例代表59.62% '00 第42回 小選挙区64.45% 比例代表62.49% '03 第43回 小選挙区59.86% 比例代表59.81% '05 第44回小選挙区67.51% 比例代表67.46% 因みに前回第44回の選挙は、郵政民営化を争点にした選挙で、自由民主党が大勝した選挙、国政選挙最高の投票率でしたが、先に出した統計数理研究所の国民性調査:5 選挙を通じた意思表明への志向では、前回の2003年の調査より、「不満なら選挙で考慮」が約10%、「何をおいても投票」が約5%向上していますので、今回の第45回衆議院総選挙は最高投票率を更新するかもしれません。




基準て何?

人それぞれの考え方、判断基準、価値観で生活し暮らしている。子どもの頃の育てられた家庭環境も、通学した学校での教師や友人との付き合い、恋をし異性と人生の深い所で繫がり、場合によっては家庭を作る。

人一人ひとり同じ環境で育ってきた人はいないし、例え将来クローン技術が現実的なモノになり、人の複製が出来るようになったとしても、エヴァの綾波レイのように工場で人を生産するわけではないので、同じ性質を持った人間は出てくる事はないだろう。

そんな性格や価値観が違う人間が、人の作った製品やサービス、五感で感じる感覚的・芸術的なモノ、人その物だったり、集まる組織や企業などを、自分の視点・基準で良い悪いと判断しています。しかし人って上手い事出来ているようで、順列を決めた上で許容出来る範囲を変化させ、自分と付き合っているのではないでしょうか。

重さや長さに基準器があるように、自分が物や人を評価する時には必ず自分の物差しを基準に、相手の大きさを測ります。車やバイクと言った製品ならば、自分が今までに乗った事のある物と比較して新しい製品を評価します。これなどは相対的評価でしか無く、ただの重さや大きさ、スピードと言った絶対的な数字だけでは、乗り心地や快適性、気持ちよさなどは伝わりません。

でも自分の生活状況はどう感じるのかは、絶対的でも相対的でもなく主観的な評価基準で判断します。主観的ですからもう好きか嫌いの判断ですね、昨日の新聞の記事に「イライラする」若者60%超える…国民性調査とあり、調査をした統計数理研究所のサイトに詳しい調査結果がありましたので、企業内でも企画業務をされている方は国民性にどの様な変化があるのか、ご一読される事をお勧めします。



日本経済への評価 悲観的に展望する意見の推移

調査結果の中でも、1 低迷を続ける「日本経済への評価」での'93年から'98年の意識の変化は大きく、生活水準や社会的な満足度の相対的な流れをみると、この10年間は低迷を続けており、図2:社会の将来を悲観的に展望する意見の推移を見ると「人々の生活は貧しく」の伸びが顕著ですね。



政治をめぐる意識の変化

5 選挙を通じた意思表明への志向を見ると、5年前と調査をした2008年とでは、政治に寄せる関心がものすごく増えているのが判ります、今までの感覚では社会生活にさほど不満がなかったからか、政治にも余り関心がなかったのが、不満が大きくなり、その解消のために政治に興味が出てきたのでしょうか、社会生活に大きな不満を抱える発展途上国の投票率が高いのと同じなのでしょうか、政治的には日本も発展途上国の仲間入り?。

国民意識を数量的に調査した結果でしょうが、この5年間の間に随分と大きな意識の変化があって、その国民意識を首相のクビをすげ替えるだけで元に戻せると考えていたとしたら、やれやれ、政治家家業とは、なんてお気楽な家業なんだろう。

今年2月にエントリーした私のブログ「変えていくのは大変だけれども」で、橋下大阪府知事の就任一年を職員が評価した記事を見ると、肯定した意見は具体的な事を評価しているのに比べ、否定的な意見は具体的な意見はなく、主観論に終始していて全く説得力がない。同じように小泉元首相と竹中元金融大臣のバッシングがあるが、どの意見をみても主観的な意見ばかりで具体的な批評はなく、説得力が感じられない。




何が悪いんだろうねぇ。

友人のブログへのトラックバックでもあるのですが、何だか社会全体が消化不良というか、未来への希望が見えない閉塞感の原因など、自分なりに理解しているモノを文章にしてみました。

私は社会に出てからグラフィックデザイナーという、どちらかというと職人のように自分の腕一本で仕事する職に就き、労働者側とか経営側とかの身の置き場というか、労働者の権利?などという物が良く理解出来ない生活をしてきました。

仕事が納められなきゃ何日でも徹夜もするし、休みなんて取れませんしね。無けりゃブラブラと遊んでいたり、美術館に行ったり、気になる映画を見たりもします。最近は仕事の量も質も変わってしまいましたので、呑気にブラブラなんて出来ませんけどね。

だいたい以前からクリエイティブの仕事。デザイナーなんてモノは、流行廃りを作る仕事ですので下克上は当たり前。業界で長く生きていこうと考えれば組織を作り上げるか、大先生になってしまうか、その両方になれない人はコツコツと小さな仕事を地道にやるのが生き残っていく手段だったんですが、社会の仕組みがドンドン変わってきていて、この数年はどれも当てはまらなくなっている気がします。

しかもグラフィックに限らず、友人のファッションデザイナーや、鞄袋物のデザイナーも口を揃えたように、その業界でこのまま生き残っていけないほど「仕事の流れが変わってきている」と言います。社会の「何?」が変わってしまって、水の流れが変わるように仕事の流れが変わってしまったのか。

社会は良い道具が出来てきたり、例えばエコロジーという概念から生活が変わったりと、国民が合理的と考えられる方向へ、などとドンドン変化していきます。
そんな流れは一応流行廃りを表現する職業ですから、社会の何がどう変化してきたかは見続けていますが、これと言った決定的な要因は見つかりません。やはり積もり積もった変化に対して閉塞感を持ちつつも、解決する方策を打ち出せないこの国に対し、産業界が反応せずに全体の仕事の量が変化してしまっているのでしょうか。

政治家なんて人たちは、その変化に対応する社会の仕組みを作ったり、修正する為の法案を作るのが仕事のはず。小泉さんが首相の頃は何かが変わるという期待感がありましたが、安倍首相・福田首相・麻生首相と続いた政権が「何かが変わる」といった期待感を、元の古い体質に戻してしまうと言う絶望感に近いモノを感じさせる政策から、このまま先に進んでいけないという閉塞感を感じるのだと思います。

テレビのバラエティー番組などで良くコメントしている森永卓郎さんは、小泉・竹中元大臣の政策は評価されていませんが、小泉さんの政策としては「無駄な国の仕事を減らし、小さな政府にしよう」だったはずで、そのために格差社会に陥ったが批判する論法です。
偶々なのか製造業にも派遣業法を適用した法案が通ったのが小泉さんの時代だったかもしれませんが、雇用格差の流れは小泉さんが首相になる10年前のバブル崩壊で、経営状況の悪くなった企業が、固定費の削減で簡単に首の切れない正社員の雇用を嫌い、パートや派遣社員に人材を求めたのが始まりだと考えます。

竹中さんにしても、誰も手を付けなかった不良債権に値段を付け、合理的な金額で最終的な不良債権処理をさせ、プライマリー・バランスを適正な形に戻そうとした手腕は評価されてしかるべきと考えます。

私は今でも国がやる必要のない無駄な仕事は、極力減らせよと考える方ですし、労働者の権利よりもちゃんと仕事しろよ。仕事は言われた事をただこなすだけなら人はいらないだろ、何を求められ何の仕事をしているのか頭で考えて仕事しろと。

プロですからね、そんな事を自問自答しながら仕事していますので、労働者の権利を声高に主張する組合というのも肌が合いません、その組合の恫喝に近いというか、反論されるとめんどくさいからなのか、ホイホイとマッサージチェアを買ってしまうお役所は解体されても当然です。

先の東京都議会選挙では、それまで第1党だった自民党が議席数を伸ばせず、民主党が大躍進しましたが、衆議院選挙でも同じような結果が出るのでしょう。でもどちらが勝ったにしても行き着く先のゴール・目的は、日本の産業が活性化し、国民が安心して暮らせる社会を作る事で、政権を取る事が目的ではない事を肝に銘じてもらいたいと思います。




けちんぼからのお願い。

タイトルを「けちんぼからの〜」と書きましたが、必要な所ではちゃんとお金を使っています(つもり)。

例えば仕事で使うPCなどは、作るデータ一つひとつの量が年々桁違いに大きくなっていますので、ソフトウェアのバージョンアップに伴って演算処理の早い機種に入れ替えたり、クライアントの意向でムービーが必要であれば編集も可能な機種になど、必要だから新しい物へと買い換えていますが、基本的に機械類は大切に扱う物持ちの良い方だと感じています。

そのように製品の持つ機能以上に、作業環境の変化や社会が求める新しい機能が更新され、製品の機能革新を求められる製品がある一方で、限られた作業の効率化のために使われる製品、例えばコーヒー豆を挽くミルや、ミキサー、フードプロセッサー、シェーバーなどなど、言い換えれば成熟した作業に限定された製品とでも言いましょうか。

使用環境で大きなイノベーションが起きにくい製品でもあり、製品を購入するのも新規よりも壊れて?使えなくなっての買い換えが多い分類の物ではないかと感じます。このような付加価値よりも基本性能が高い家電製品は、日本メーカーよりも欧州メーカーの方が頑丈で壊れにくい上に、壊れた場合も簡単にパーツ交換出来る、言ってみれば長く使える製品が多いように感じます。

けちんぼの証明として現在使っているシェーバーですが、オランダのP社の製品を使っていますが、こちらは既に20年目です。購入する時に毎日使う場所は洗面所に限定されるので、充電式よりも交流式の方が充電池の劣化などがない分、長い間使えると考え購入した物ですが、まさかここまで使うとは思っても居ませんでした、だって壊れないんだもん。

もう一つは電動歯ブラシ、ブラシヘッドが動くドイツのB社の物ですが、7年前に充電池の劣化でリペア品と交換した意外使い続け、既に15年ほど使っています。リペア品とは言っても駆動部分と充電池はメーカーで確認しての出荷ですから、ほとんど新品の状態で、かかった金額は確か¥2,000代と非常にリーズナブル。

対して国産メーカーのP社のバリカンを使っていますが、8年前まで使っていた交流式の刃が欠け買い換えるのですが、その時は刃の交換で新しい機種を購入するのと同じくらいの金額を提示され、充電式しかないのでそれを購入しましたが、4年で充電池が使えなくなり交換で確か¥5,000ぐらいかけて交換しましたが、つい最近再び充電不能となり、新しい製品と交換する事になりましたが、私にも一応学習能力はあります、その国産メーカーの製品は買いません、オランダのP社製になりました。

国産メーカーは、もっと購入してくれたカスタマーの事を考え、サービスを行うよう考え直した方がよいのではないのか、任天堂のように。人の手が掛かるから修理に高額な金額を提示するのはまぁ解る、ならばユーザー自身が消耗品の交換を前提とした製品作りは、作り手としてしかるべき筋ではないのだろうか。

修理に高額な金額を提示して新製品購入を促すのは、ユーザーよりも自社の利益を優先した考えと思えてしまいます。




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