RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

本能でブランディングを嗅ぎ分けている感じです

Gigazineの7/14の記事に【「小悪魔ageha」編集長にインタビュー、世の中には「かわいい」か「かわいくない」の2つしか無い】という中條寿子編集長へのインタビュー記事が載っていました。

最近は雑誌は余り読みませんし、ましてや女性誌に関しては性差の違いか、求める物の違いからか、銀行や病院の待合室に置いてあっても手に取る事はあまりなかったので、この「小悪魔ageha」という雑誌はせいぜい書店やコンビニで表紙を見た程度でした。

しかし、この編集長へのインタビュー記事を読んでみて、頭でっかちにブランディングを語る人たちの言葉と比べ、非常にシンプルで解りやすく、例えば本能で辿る道を選んでいるような明快さでブランディングを語っているようで、力強ささえ感じました。

実際に本としてはどうなのかと言えば、日本の代表的な女性誌のCanCamの34万6466部より下で、non・noの25万8648部より上の、公称30万部の発行部数を誇る雑誌だそうです。

詳しい詳細は実際に記事を読んでいただくとして、インタビューの中で気になった所をあげてみます。



書店売りしかない雑誌などは本屋さんに行って、すごく面白そうに感じた雑誌は買ってしまいますね。でも、最近は「これは伝説になるぞ、今のうちに買っておかないと!」って思うようなものはないですね。以前は伝説になりそうだなって思うものが結構ありましたけど。

伝説と思うものって、やってはいけないものだったり、完全に編集者が職人として作っているものが多いので、面白いものが多いんです。その代わりにクレームが多かったり広告が入らなかったりして、本として成り立たなくなるような場合が多いようです。だからなのか、最近ではそういった雑誌がなくなりましたね。



基本的に雑誌ってカルチャーやオピニオンと言われるような、興味を感じる・共感出来ると言った、読んでくれる読者をグイグイ引っ張っていくようなパワーが必要なんじゃないでしょうか、少なくとも十数年前のサブカルのリーダーと言われた雑誌にはそれがあったような気がします。

確かに以前と比べ流通している情報量は比べものにならないほど増えていて、その中でどう遊んで良いのか解らなくなっているような所があり、マーケティングとかマネージメントという点から効率化や、企業の窓口としてペイパブと言った形で本を切り売りし、買ってくれる読者の求める物が見えなくなっているのではないかと感じます。

これは雑誌を作る事だけに限った事ではなく、私たちが居る広告業界にしても、最近余り面白い広告が少なくなったと感じる所から、同じ所に原因があるのではないかと感じます。

また、以前このブログにエントリーした「選ばれるために」で引用した、作家の村上春樹さんが本の中で、お店の経営と作家としての活動の基本的なポリシーは変わらないとした文章と同じような事も言われています。



ageha:基本的には本当に読者が求めている事とか、共感できる事しか載せないのですが、得てしてそれって批判を産むこともあると思うんですよ。例えば深夜放送でやっていたことをゴールデンですると受け入れてもらえないみたいな。でも、わたしたちは自分たちの為に雑誌をつくっているのであって、正直agehaが狙っていない層の人に読んでもらわなくてもいいと思っているんです。けど、今はあまりにも広がりすぎていて、いろんな人が読んでいるじゃないですか。だから、わたしたちが感じた事を共感できない人とか面白半分で見ている人、「このメイクが変」だとか「この頭は何だ」という気持ちで見ている人からすると、不謹慎に見えたのかもしれません。

Gigazine:ここまでのインタビューで「読者目線」「わたしたちの求めているもの」という話しから今の話を聞くとなるほどと思いますね。

ageha:でも、それが分からない人にはわかってもらえなくてもいいと思っています。



この引用文はインタビューの最後の方に、雑誌で「飯島愛追悼ページ」について説明した文章ですが、全ての人に向かっていい顔は出来ない、私たちの求めている物はこれなんだ。と、雑誌が読者から求められている物を作り続け、「5万部にしてでもいいから、みんなで共感できるものをわたしは作りたいと思っています。」と締めくくっています。

しかしまさに手を挙げ表明するのがブランディングと言う事を、シンプルで的確に表現し、成功している事例だと感じます。




さらに先に行く画像制作のためのソフトか。

Autodesk MAYA

先日「あり得ない風景を見慣れてしまったのか」と言うエントリーで、CG画像と実際に撮影した画像とのクォリティとの差が大きく、たまにはお金をかけて心に残るような力強い画像を使いましょう。と書きましたが、先日Autodeskと言うハリウッドの映画制作に多く使われているソフトメーカーの、3DCG セミナーに行き、これから我々の業界が辿るであろう未来の制作の姿が見えたように感じます。

私が知っていた3DCGソフトは、クラッシック環境の頃からSTRATAなんてソフトが使われ、購入もしてみましたが、使うオペレーターがヘボなのと、周りに使いこなす人が居なかった事もあり、市販のエデュケーションブックを片手にチュートリアルをこなしてみても、作業量の多さと最終的な画像に書き出すレンダリング時間の多さから、レギュラーの仕事にも差し支えるし、上がった画像もいかにもCGと言う、どちらかというと稚拙な仕上がりだったため、それ以上スキルを上げる事もせずに結局は宝の持ち腐れに。

しかし先日のセミナーでは3DCGでの制作の流れが、メーカーの商品企画の段階からCADやCGを多用して行われている事から、そのデーターを有効に利用し、街やインテリアのCGの中に置く事で時間と費用を大幅に削減する事が可能になったとの事。

だいたい新商品なんて広告写真を撮影するのに、製品が形になっていない事は結構ざらにあり、大きなスタジオ内に部屋や街を再現した立込を何日も無駄にする事も珍しくはなかった。

メーカー側はモックアップの制作や、撮影に関する立込の費用やスタジオ代、カメラマンやスタッフの時間と費用など、トータルでの高効率化の恩恵を受けられ、制作側は計画的な時間と費用を配分出来、従来の制作ワークの他にもメーカーとの協力で環境別の製品シミュレーションなど、仕事領域の拡大が見込めるとの事、何だか話だけではよい事だらけです。

業界の再編成がありそうですね、まず物撮りのカメラマンにスタジオと、立込の大工さんが失業しそうです。その替わりCGのための小物のデーター作成や、ライティングノウハウを持ったカメラマンがCGデーターのライティング作業を行ったり、街や建物の壁や建具のマテリアルデーターを、現在のレンタルフォトエージェンシーのように切り売りで販売する会社が出てきそうです。

現段階でこのような仕事の流れは、けして普遍的ではないにしろ数年後には当たり前に感じているかもしれません。

私が15年前に印刷原稿の制作方法が版下から、イラストレーターのデーターを(まだPCの性能も余り高くなく、実画像をハンドリング出来る物でなかった)出力センターに印画紙出力を依頼し、台紙に貼った物にトレペに色指定して入稿していた頃、組み版としてレイアウトし、データ入稿していたクォークエクスプレスを見た時と同じような立ち位置にあるように感じます。

あの頃のクォークのバージョンは3だったと思いますが、確か値段は高価で4〜50万円した記憶があり、3DCGソフトの現在の価格もそれに近い金額だとは伺いましたが、その頃のDTPソフトがそうだったように、プラグインなどを揃えるとかなりの金額になりそうですね。




Graphic Designerの未来は?:2

職業グラフィック・デザイナーとして生息する場所は広告代理店の制作部や、デザインプロダクション、独立したデザイン事務所など、それを専門とする企業に集まり仕事をしています。

このような専門領域に特化した職業で区切られた企業は、職人などが集まるギルドなどの専門知識を持った集団で、機材や材料などを集中させる事で作業効率を上げる事が出来ました。数年前までは版下を作る技術、写植を指定し文字を組む技術、など沢山の専門技術の知識が必要とされていました。

しかしコモディティー化が進んだ現在は専門知識がなくてもPCのスキルさえあれば、専門的な知識を持つ者から教わらなくてもキーボードさえ打てれば印刷原稿を作る事が出来ます。

この事から専門職業・職域で集まって作業する事で作業効率を上げるとは言えなくなってきました。

必要な時に必要なだけ必要な場所に。On Demandの考え方ですね、グラフィックデザイナーも代理店やプロダクションなど、規模も大きく多くのデザイナーがいる企業では、瞬発力の必要な規模の大きや実験的な仕事、また多ページを一度に作り上げる仕事ではフォーマットを作るマスターデザイナーと、フォーマットに合わせ写真や文字を入れ込むオペレーターが居れば済んでしまう事になりそうです。ってもうなっているのかな?。

年に数度原稿を作るような規模の企業では、外注に出す仕事とスキルを持った派遣社員が社内で内製する仕事の2つに別れるのではないでしょうか、小さな個人事務所のようなデザイン事務所(ウチなんかもそうですが)は、数少ない「外注に出す仕事」を取るために専門的な営業力が必要になるでしょう。

デザイナーという職業は以前のようにカタカナ職業としてもて囃される、流行のような職業ではありません。デザインとは何を指す言葉なのでしょうか、一言で言ってしまえば「目的を持つ物の形態を、機能や生産工程などを考えて構想すること」です。

元々グラフィックデザイナーは、印刷物や平面装飾物を用いて社会とコミュニケーションする事を目的としています。コモディティー化が進んで起きた事とは、専門的な知識をPCに代行させる事で、普遍化させ隣の職域との垣根を無くす事でもあります。

平面グラフィックの枠をなくし、コミュニケーションという目的の手段として映像を使ったり、Webを使ったりして構想することが求められてきているのではないでしょうか。

同じようにグラフィックデザイナーと仕事を行うクリエイティブディレクターやアートディレクターは、マーケティングやブランディングからの視点も踏まえた、企業戦略まで突っこんだ答えを求められてきているのではないかと感じます。

社会環境がドラスティックに変化する中、職域を表していた言葉も変化してきていますね、グラフィックデザイナー・Webデザイナー・映像デザイナー達は「コミュニケーションデザイナー」と言われるようになるような気がします。




鬼十則+三

日本一の広告代理店「電通」の四代目社長:吉田秀雄が戦後間もない1951年に作った社員の行動規範で、一部では伝説扱いになっていますが、友人の営業に聞くと「規範としてはもう使っていないけど、個人的にそう考えている人も未だいる」と。

モーレツを美徳としていた一昔ならまだしも、と言う所でしょうが常に上を目差す企業の中でも特に売上に直接影響する営業関係の仕事に着いている人には、考えさせられる規範ではないでしょうか。

また鬼十則ほど知られてはいませんが、同じく吉田秀雄による「責任三箇条」も作られていました。



鬼十則
1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。


責任三箇条
1. 命令・復命・連絡・報告は、その結果を確認しその効果を把握するまではこれをなした者の責任である。その限度内に於ける責任は断じて回避出来ない。
2. 一を聞いて十を知り、これを行う叡智と才能がないならば、一を聞いて一を完全に行う注意力と責任感を持たねばならぬ。一を聞いて十を誤る如き者は百害あって一利ない。正に組織活動の癌である。削除せらるべきである。
3. 我々にとっては、形式的な責任論はもはや一片の価値もない。我々の仕事は突けば血を噴くのだ。我々はその日その日に生命をかけている。


吉田秀雄が社長就任の5年後に作り上げた軍隊並みに厳しい行動規範ですが、製造業での工場で何か物を作ると言った仕事というよりは、マネージメントをする側の『仕事という物』を上手く表現してあると同時に、軍隊というトップダウンでの指示系統による縦の繋がりよりも、一人ひとりの社員が企業理念を元に考え、責任を持って行動すると言った並列思考的な先進性に感心させられます。

兵隊という数という考え方ではなく、グリーンベレーのように少数精鋭な特殊部隊がミッションをクリアすると言った方が近いのでしょうか。

確かに今の時代にこれほどのモーレツな仕事の仕方は合わないとも思いますが、仮に数十人いる社員一人ひとりがこの規範を守り、仕事をしたらスゴイ結果になるのだろうと、現在の電通と言う企業を見ると考えさせられます。

もし、現在同じようにこのような行動規範を作るとしたら、私ならば後3項目増やすでしょうね。

1. Webを使い、積極的に情報をコントロールしろ。
2. 顧客と社会に対して誠実であれ、嘘は絶対につくな。ついてもすぐにばれる。
3. 仕事を楽しめ。




あり得ない風景を見慣れてしまったのか

数年前までの新聞広告や駅貼りのポスターのメインビジュアルは、写真一つ取っても空間としての空きや、モデルの表情一つにとっても、カメラマンやデザイナーの気迫を感じる作品が多かったように感じる。

今のポスターなどの広告は作品と考えてはいないのか、ただの消費される情報でしかないのか、心にフックとなる記憶に残る広告が少ないのが残念ではある。

人間の思う通りにポーズを付け撮影出来ない動物や昆虫などは、イラストやキャラクターとしてビジュアルとして登場していたが、今では3DやCGで思うままにポーズを取れるし、どんな荒唐無稽なシュチエーションでもビジュアルが作れるしムービーにもなる。

しかもロケの現場に行っても天候に左右されず、光の具合も思うがまま、撮影のためのお天気待ちしていた頃と比べれば効率は驚くほど高いですね。



ブリジストン・レグノ

例えば写真にある数年前のブリジストン・レグノのポスターだが、友人のADの作品で制作の裏話も聞いた。ローマの街一区画を撮影用にキレイに掃除し、路上の車を全部どけ、撮影用に道路に水を撒き、建物に照明を入れてもらうなど一つの街を買い取るくらいの金と時間と労力が掛かった作品だが、商品コンセプトの洗練された都市と静粛性がワンビジュアルで表現された良い写真であり広告だと思う。

現在ではその頃に作った大がかりで金食い虫だったビジュアル作成の反動なのか、有り物のレンタル画像を使ったものや、見る者をねじ伏せるようなカメラマンの拘りのような、力強いビジュアルは見あたらない。

しかしコンシュマーと言われる人たちに、毎食毎食ファミレスやコンビニ弁当のような、そこそこ美味しくいつでも食べられ便利でお手軽な広告ばかりで飽きられないのだろうか。

いつも食べるのは牛丼でもファーストフードでも、ナショナルチェーンが作る効率的に量産された食事でも、たまには丁寧に作られた、旬の食材を使った心に残る食事をしたいと考えるのが人情ではないだろうか。

多くの広告を出稿する企業は、次年度の年間予算を組む時に広告・PR計画など立案するのだろうが、低予算で見た瞬間に忘れ去られる広告ばかりではなく、中には見る者の心にグサリと刺さる、くさびのような強い表現のビジュアルを入れるようお願いしたい。

制作費は効率良くは作れないだろうから、チェーン店化したお店で食べるよりも多少割高ではあると思うが、たまに食べるととても美味しく感じられると思いますよ。




衆院選挙が近いようだが日本は変わるのだろうか

小泉・竹中の構造改革路線が現在の格差社会を生んだなどと、バッシングも激しく感じます。だって格差社会のスタートは90年代初めのバブル崩壊と共に始まっていたのですから、原因を構造改革路線と言い切るには少しこじつけすぎじゃないのと考えちゃいます。一方鳩山総務相の更迭と西川社長の続投で、与野党入り乱れての国会での論争もこの先どうなるのやら。

元はと言えば官庁の外郭団体などに、郵貯の資金を審査も経ず無駄に流れていた官僚主導の組織から、国民が納得出来るような公平な形で民営化し、効率の高い小さな政府で無駄を無くそうというのが、民営化の発端ではなかったのか?。

脱官僚を掲げる民主党も政権交代後は西川社長を更迭すると表明し、民営化も見直すという、しかもマニフェストには児童手当の充実(中学生まで年31万円)や、高速道路の無料化など、サンデープロジェクトの田原総一朗と民主党・鳩山代表との対談を聞くと、原資の無いばらまきばかりが目に付きます。

民主党はあの年金記録問題の発端となった自治労が支持母体でもあります。コンピュータによるオンライン化反対や、データ入力45分・休憩15分と言ったような、あまりにも企業からしたら常識ハズレな労使の「覚書」を交わした労組で (叩かれたおかげでその「覚書」も訂正されたのでしょうが) このような事が二度と起こらないような組織としての改革はなされていません。

自民党は前回の選挙で、大きくなった政府の無駄遣いを止め、効率的な小さな政府にしていこうとして、国民に大きな支持を得たのではないのでしょうか。

でも平成21年度補正予算では過去最大の約14兆円を、充分な議論もなしに、ほぼばらまきに近い形で可決成立し、「国立メディア芸術総合センター」というマンガやアニメなどを展示する国営の展示施設を117億円かけて箱物を建設する事まで決まった。

やれやれ、今回の経済危機で自動車や家電メーカーの業績悪化が言われていますが、反対にAppleや任天堂などは好調に利益を生み出しています。その差は何?自社工場を持ち、垂直思考の物作りをしているか、自社では工場を持たず水平思考で物を作る「ファブレス」メーカーかの違いでしょうか。

官庁が音頭を取る護送船団方式の経済振興策ではなく、企業が活動しやすい環境を作り上げる事が求められているのではないのでしょうか。つまり企業に対して政府は積極的で包括的な経済振興策をとる「大きな政府」ではなく、企業の活動を妨げない「小さな政府」が求められているんだと思います。

市民である生活者に対してはある程度の保証は必要なのでしょうが、お役所で働く職員のためのマッサージチェアは必要ないと考えているんじゃありませんか、選挙が近いからと目に見える献金問題や、かんぽの宿の売却先に目くじらたて、紙面を大きく取って報道するよりも、その政党が本質としてどの様な未来を考えているのかを国民に知らせて欲しいと考えるのは私だけでしょうか。

次期政権を取る(であろう)と言われる民主党は、脱官僚の話は良いけれど、お役所がキチンと仕事を進める事が出来る組織改革を、支持母体である組合とのしがらみの中でどう進めていくのか、郵政民営化を見直すという事は大きな政府を考えているのかを聞いてみたい気がします。




何を求められているかを考えよう:2

昨日のエントリー「何を求められているかを考えよう:1」で、その企業に対して社会が、顧客が何を求めているかを掴み、対応する商品を考えると書きましたが、今までの製造業・流通業の方達は、血のにじむ努力で日々これを繰り返してきたわけです。

努力とはコンシュマーやカスタマーを接点として、社会の変化を感じ取り自身を変化させるといういわゆる「PDCAサイクル」の実行です。PDCAとは、
1.)Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。
2.)Do(実施・実行):計画に沿って業務を行う。
3.)Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する。
4.)Act(処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする。

4.)のActの次に1.)のPlanを続ける事で、継続的な業務改善をしていくと言うのが、生産管理や品質管理などの管理業務を計画どおりスムーズに進めるためのマネジメントサイクルの一つです。

このマネジメントサイクルを、一部業務だけではなく商品企画やマーケティングにも用い、企業の持続的成長を目差し、コンシュマーやカスタマーとのコミュニケーションを取る部署が強化されたりしています。

以前から広報部や広告部などの独立した部署がある企業は、既に昔から行っている事なのです。

しかし表現の場としてのメディアが既存のマスメディアしかなかった頃には、年間予算をきっちりと計上し、多額の金額を使う事でしかコミュニケーションは取れませんでしたが、今は誰でも使えるWebという新しいメディアが定着しました。

Web メディアを利用するのは、マスメディアの媒体購入費を考えると、専任の人員を割く必要はありますが、ほとんどタダみたいな金額です。PRと言う概念は一部の大企業ばかりではなく、お店や病院など規模の大小には関係なく、これからの時代を生き抜いていくために必要な概念なんだと思います。

でも、Webで自分の意見や業界でのニュースを記事として掲載して何になるの、と訝しがる方もいらっしゃるかもしれませんが、広告やチラシなどの販促用ツールと違いますから、結果がすぐに出るわけではありません。強いて言えば灯台のような物でしょうか、インターネットという情報の海を、自分の目的に向かって進む時の一つの指針となりうる存在。

長く続ける事で海を行く男達──もちろんWeb上には女性もいますが──から、信頼され頼られる事で、自分自身のブランディングが確立するという事でしょうか。書く事が何もなくてもプライベートな話題を盛り込んでもイイでしょう、同じ話題が有ればコメントを頂きやすくなったり、お会いした時に話のきっかけにもなりますから、コミュニケーションの第一歩を踏み出す事で、自分の向かう方向も見えてくると思います。




何を求められているかを考えよう:1

以前このブログのエントリーに書いた「パンドラの箱を開けてしまった、ライフネット生命。」で、生命保険には保健の原価に付加保険料という営業経費が合算された物で、営業のおばちゃんを抱えないライフネット生命が、他の生保に比べ付加保険料が1/5と言う事を公表してしまった、と書きました。

既存生保は他社と比べられた時の差別化を表示し、選ばれるための努力をするのは当然の事として、付加保険料に関しても加入者の利益のため必要だというコンセンサスと、商品のインセンティブの一つという事を商品開発から見直す必要があるかもしれません。

社会環境が大きく変化している事から、価値観も一人ひとり変わってきていると思いますし、年齢によって、家族構成によって必要とする保証も変化しているでしょう。以前まででしたら死亡保障がメインで、特約として入院保障やガン・成人病特約などを附加する物だったと記憶しています。

確かに子どもがまだ小さく、一家の大黒柱が亡くなってしまうと、残された家族は路頭に迷う事から死亡保障も手厚くする必要もあったのでしょうが、今の社会では共働きで奥さんの収入もしっかりと確保出来る家庭も沢山あるでしょうし、子どもも成人し、いざというときも残された家族に迷惑が掛からないだけの葬儀が出来れば充分と考える家庭もあるかもしれません。

保険に加入した年齢で思い描くライフスタイルが、20年後も変わらずに有る事の方が少ないのではないのでしょうか。人生好調な時ばかりではありません、若い頃は給料も高かったけど、社会環境の変化で会社が倒産など、人生山あり谷ありです。

そんな変化するライフスタイルに合わせた形で、生保のカテゴリーから損保のカテゴリーまで、いろいろとモジュラー化した商品を附加していける柔軟な商品を用意出来れば、ライフコンサルタントとしてこまめに営業してくれる生保のおばちゃんはインセンティブの一つとなります。

もちろん現在でも加入している保険を下取りして新しい保険に移行する事は可能ですが、偏見かもしれませんが下取りする保険に比べ、新しい保険の方が格が下がるような気がしてなりません。一生をかけて保証される普遍的な物を保険のベーシックな物と位置づけ、保証を厚くするのか貯蓄を目的とするのか、その時に必要と考えられるオプションを附加していき、手続きも簡単で柔軟な商品をその時々で提供する事が求められているのではと考えます。

Web上で販売する保険には、簡単に安く契約出来るメリットはありますが、ライフスタイルの変化に対応するための提案やコミュニケーション能力は、欠けているのではないでしょうか。そんな間柄に欠けているのはお互いの信頼感です。

保険業界以外でも従来の業務を見直し、ユーザーが何を求めているかを考え、求めている多様性に柔軟に対応し、きめ細やかにユーザーの意向を反映する事で、顧客満足度の向上にも繋がると考えます。そんなきめ細やかな対応にはWebと言うメディアが最適と考えます。




日本の未来は明るいのか暗いのか

私みたいな素人が言うのも何ですが、新聞報道などによる株価日経平均1万円突破というニュースを聞いて、景気は回復傾向にあり日本の経済も再生か? などと報道されても簡単には信用出来ませんね。

まず第一にウチみたいな弱小デザイン事務所で働く身としては、仕事の依頼が増えた、と言うような実感がありません。まぁ営業努力してるのか、と言われてしまえば足りないかもしれない。と答えるしかないのかもしれないが、「今までだったらクライアントの景気が悪いから、制作側に仕事が流れてこない」・・・みたいな景気の良し悪しの流れが見えていたのだが、クライアントも出口を見つけられずにもがいている最中で、新規の仕事などは考えられないからその内ね。
と言う風に感じられる。

ま、そうではない若い人たちも大勢いるだろうが、ある程度年を重ねたデザイナーは冬の時代で廃業する仲間も沢山いたりする。

現実の社会として情報の流通がこれほど変化し、社会もそれに倣うように変化しているのに、社会の変化は遅々として進まないばかりか、元に戻ろうとする勢力まで現れる始末だ。

これからの社会保障に対する個人の負担額の大きさを考えると、これから成人を迎える子供たちに、申し訳ないと頭を下げたくなってしまう。しかも正規雇用は難しくなるばかりで、子供たちに未来を夢見る事は可能なのだろうか、と溜め息の一つも付きたくなる。しかも非正規雇用は賃金も抑えられるので、ますます税収が減り、プライマリーバランスが悪くなりそうな気配。

しかしその反面企業の中にはガツガツと働きもしないのに高い給料を頂いている方達もいる、当然年金は賃金額に合わせてスライドするから、沢山給料を頂いていた方達は、年金の支給額も高い。

少子高齢化社会で働き盛りの若者は少なくなるが、60才で迎える定年後は仕事の雇用先すらないのが現状だ。あまり体も動かなくなってしまう80才頃まで、年金を頼りにただ遊んで暮らしていくのか?。いくら若い頃から培ったスキルやナレッジがあっても、ビルの掃除人や、交通整理くらいしか仕事がないのなら、年金もらって生活するしか選択肢は残されていないのかもしれない。

日本の避けて通る事が出来ない現実を前にしてみると、この先定年は80才までと、40才(根拠はない)以上の昇級停止と、年金の上限額を決めてしまう事と、現在居るノンワーキングリッチの給与の見直しが必要なのではないのだろうか。

もちろん消費税額も上げるのだろうけれど、既得権を持った年寄り達に下克上を突きつけるのが現実的な気がする、政党としては自由民主党はなんだかこの先の改革路線は望めそうにないし、かといって組合を支持母体とする民主党が政権を取っても、仕事しなくても高給を保証してくれる環境を手に入れたのを簡単に手放す組合(特に上層部?)は無いだろうから、変えて行くのは無理なんだろうなぁーと。

変化した社会に合わせるように、システムも変化させようと考える若手政治家?達が、第三の政党かなにかを立ち上げてリーダーになるしかこの国は変わっていかないのかな、将来から現在を振り返り「長い暗黒の○十年」だったと呼ばれるのだろうか。




Designerプロとアマチュアの境界

PCの普及に伴うソフトウェアが普遍性を併せ持つようになってから、コモディティ化が速いスピードで進んできています。デザインのトレーニングを受けなくても、レイアウトする事が好きで、PCとソフトを使いこなすスキルを持てば、誰でもデザイナーになる事が出来る時代でもあります。

数年前まではプロとアマの境界はハッキリと、しかもかなり高い位置にあり、例えばグラフィックデザインでしたら印刷の原理から製版の仕方、文字の組み方から版下の作り方まで、そのスキルの一つが欠けるだけで、仕上がりに大きな差が出てしまいました。一つの物を作り上げるのに必要なスキルは基本的には現在も変わりはありませんが、OfficeなどのビジネスソフトではなくIllustratorなどのDTPソフトを使えば、その差も最小限に留める事が出来ます。

現在はWeb上にさまざまなコミュニティーが存在し、デザイナーが集まるコミュニティーには「デザイン募集」「ロゴマーク募集」などの書き込みも多く見受けられ、仕事の流れも簡単な物だったら今までのような代理店や制作会社を通した流れから、クライアントとデザイナーがダイレクトに繋がって簡単に依頼出来、しかも今までと比べると非常に安い金額で済む業務と、「ブランディング」や「マーケティング」などのコンセプトワークまでを含めた、きめ細やかな作業を必要とする業務へと、2極化へ変化してきたように感じます。

古くからこの仕事をしてきた私としては、クライアントとクリエイターのコミュニケーションを持たずに制作し、お手軽なポケットマネーみたいな安い金額で作れ、飽きてしまえばまた新しい人に新しい物を頼むと言った、消費されるデザインという物に違和感を感じますし、ブランディングと言った観点から判断すると、クライアントにとってマイナスの部分もあると感じます。

確かに仕事を見る上では、プロとアマチュアの仕事かは判断しにくくなって来ており、時代も手軽に提供出来る環境を必要としていて境界線も非常に曖昧です。

それではプロとアマチュアの境界とは何なんでしょうか、クライアントから制作を依頼され、その対価を頂く事がプロとアマチュアの境界なのでしょうか、それともビジュアルやコピーの大きさや位置について、コンセプトから導き出されたプライオリティーであると説明できることが境界なのでしょうか。

その境界の解釈について100人いれば100通りの考え方があると思いますが、私は「限られた条件の中でも最高の結果を出せるかどうか」ではないかと考えます。整った条件の中で制作するのは誰でも(多分)出来る事です。しかし時間や金額の条件が限られた場合でも、クライアントの求める物をキチンと制作できることがそのプロとアマチュアの境界と考えます。

そのためにクライアントとクリエイターはメールや電話だけではなく、実際に会ってコミュニケーションを取るなど、お互いが信頼出来る関係を構築する事は必要条件だと考えます。




<< 8/28 >>