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クリエイティブって

最近の若いもんは。

昔から世代間のギャップで年寄りがボヤく言葉ですけれど、50歳を超えた私でも見た目若作りしていますので街の中で合う若者たちにそれほど違和感なく付き合えて(いるつもり)います。でも最近仕事をしていて、どうも気になることが目につきましたので、なんで?と朽ちつつある脳みそを働かせて原因を探ってみました。

なんで?と感じたものはいくつかの会社の「会社案内」のパンフレット。担当者いわく、殆どが2〜3年前に制作され、それを毎年修正して印刷してきたものと言うことですが、ページ構成なども含めてあまりにもパッとしないデザインが並び、どちらの制作会社を使って作ったものかを聞くと「今まで会社案内などの印刷物の制作をしたことが無いのだけれども、付き合いのある業者が出来るということで依頼して作った。」と言われていました。

う〜ん、その制作した会社のことはよく知りませんが、今までも納入実績はあるので先方の担当者とも話を詰めることができるし、印刷物の制作もDTPソフトをハンドリング出来るスキルさえあれば制作可能だから、新規事業としての可能性も考慮し仕事を受けた、と言う感じでしょうか。

今まで専業でなかった業種でも、スキルを持ったデザイナーを確保できれば誰でもが印刷物を納品することができますし、デザイナーもグラフィックとDTPを学ぶ学校を出て、いくつか仕事も任せてもらえるようになると、こんなビジュアルでこんな表現したい。
・・・と若いデザイナーたちの発想力や表現方法などは、今も昔もさほど変化はないのでしょうが、クライアントから「こんなイメージで、これを訴求ポイントとして企業の全体像を表現したい」とお題がだされ、何案か作ってプレゼンをし、この方向で行きましょうと決まれば、後は細部を担当部署と詰めていけばほぼ完成です。

と、ここまで見てみると意外と簡単ジャーン。と感じられるかもしれませんが、クライアント、制作会社とも作り慣れていない場合、ドラマはここから始まります。

制作会社側がある程度の企業規模があり、複数のスタッフを抱え、コピーライターやデザイナーは制作に専念し、営業がクライアントとの窓口になっている会社がたくさんあります。通常営業はクライアントの意向を制作側に伝えるため、双方とのコミュニケーションが非常に重要で、当然社会環境からクライアントの立ち位置を理解し、企業戦略の一ツールとなる会社案内のあるべき姿を持っていないと、双方の交通整理は上手く出来ません。

作り慣れていないクライアントの担当なども、見た目がパッとしないとか、写真が暗いとか文字が多くて何が言いたいのかよく理解出来ないとか、主観的な意見をバシバシ言ってきますから、それを客観的に見て方向を修正していかないと、大阪に向かって走っていたものが、着いたら札幌にいたなんてことになりかねません。

専業でそのような仕事を長い間続けてきた会社は、社員スタッフの層が厚いんです。先輩について叱られながらも長い間仕事をしますから、ノウハウがそこで伝承されていくんですけれど、異業種から参入してきた会社は層も薄く、主観的な意見で方向がブレて行っても軌道修正することができず、戦略ツールとしてふさわしくなくなったのではないか。
と言うのが最近の仕事で見て感じたことです。

まず仕事のノウハウが上下の間で伝承されていない。もうひとつはツールとして、クライアントと最終的な姿の共通認識が出来ていない。こればかりはインターネット上に書かれている記事を読んでも身につきませんから、経験するしかないのでしょうね。

でも、版下作成からデーター入稿、CDやMOなどのメディアを受け渡す入稿から、ファイル転送サービスを利用した入校へ、などと、仕事の効率化を進めて行った結果でもあるので、クライアントと制作会社とのコミュニケーションの絶対的な時間の減少はしょうがないのかもしれませんが、その質を落とす要素を排除していくマネージメントを実行しないと、新しい事業を継続していくのは難しくなるかもしれません。

・・・なんだ、若者の話じゃないじゃん。タイトルに偽りありだな。(笑

つい最近、こんなお話も耳にしました、あなたならどう応えます?。
会社案内の校正紙を先方のとある部署の偉い人が見たときに、ボディコピー文中の平仮名の“お”が小さく見える、20ページのパンフにある“お”の文字全てバランスよく大きくしろ。

非常に個人的で主観的な意見だと思います。翌日その校正紙見たら大きく見えないかもしれません、書体も歴史ある書体メーカーの基本的な書体です。キャッチコピーや商品ロゴと言った、限られた文字組の中の一文字ではありません。怖いのは文字のバランスが崩れて、文字組がオーバーフローする可能性がある事、クライアントの窓口も制作側の担当者も、偉い人の意見だからとただ受け入れてしまうのはいかがなものかと感じますね。




人を惹き付ける「引力」

昨日は、東京ミッドタウン5階の DESIGN HUB で行われた、若手アートディレクターの森本千絵さんの講演会に行ってきた。参加しているZUAN圖案という浅葉克己さんが会長を務める会が主催で開いたもので、年に2回ほど講演会を開いており、前回は佐藤卓さんの講演だった。今回は私と比べるとずい分と若いクリエーターの方でしたので、行こうか行くまいか迷ったのですが、人の話を聴くのは非常に楽しいので参加してきましたが、講演会場となる DESIGN HUB のリエゾンセンター自体が5〜60人しか入れない小じんまりとした会場ですので、プレゼンターと参加者との距離感も近く、会場に向かうエレベーターに乗り合わせたのが、私とプレゼンターの森本さんと、やはりアートディレクターで大先輩の佐藤浩さんの3人でした。

浅場会長を始め、カメラマンの十文字美信さんなど、クリエイターとして沢山の人に認められた方たちの講演を聞いた時に感じていた何かが、この若い魅力的なアートディレクターにも備わっていると強く感じました。

その人達に共通する“何か“とは何なんだろう?と、漠然と考えていた時リーダーとして登録してあった電通のさとなおさんのブログにあっけ無く載っていた。なんともはや便利な世の中になったものです。

「セダクティブというキーワード」と言うエントリーですが、私自身この言葉を知らなかった。氏の言葉によると、“Seductive(セダクティブ): 魅惑的な、誘惑的な、人をひきつける
派生的に超訳すれば、「一緒に仕事をしたくなる」「まわりに人が集まる」「まわりを巻き込むチカラのある」みたいなことまで広げられるか。” とあるが、講演会に参加してみて感じたことはプレゼンターの皆さんにはこのような周りの人や物を巻き込んで進んでいくような、勢いや力を感じていました。

このような勢いや力と言った個人のパーソナリティーは、クリエイターだけが必要としているのではなく、会社やグループなどのリーダとなる人が持っているべき資質なのでしょう。

自分が面白いと感じ、その面白さを他人と共有し面白さを大きく膨らませ、さらに多くの人を巻き込んで大きな渦を作っていくのが、リーダーなのだろう。昔まではその役割は雑誌等の既存メディアが担っていたが、今はブログやTwitterなどのソーシャルメディアに移行してしまい、今までと違う環境に戸惑いを感じて手を出さないでいることから成長という循環が切れてしまい、落ち込んだような“元気のない社会”になってしまっているのではないのでしょうか。

コモディティ化が進んだ業界で、選んでもらうための差別化があるとすれば、このセダクティブというキーワードだと思います。アートディレクターの皆さん、周りのクリエイターを巻き込んで、楽しいと感じられることを沢山やりましょう、大きな渦を作ってクライアントまでも巻き込みましょう。

なんか今まで原因がつかめなくモヤモヤとした感じがありましたが、解決したような気がします。ありがとう、森本さんとさとなおさん。




趣味という名のディープな世界

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先週末の8月14日土曜日から開催されている、横浜の関内にある市民ギャラリーで開かれた写真展を見に行ってきました。そうです、有名なプロカメラマンとかではなく、アマチュアの写真好きな人達が集まるクラブの写真展。個人的にも写真を撮るのも、見るのも好きですので楽しみに行ってまいりました。

その写真好きなクラブに集まる人達の説明をすると、ハッセルブラッドというスエーデンのカメラメーカーのフォトクラブで、多くのプロカメラマンも利用している、一言でアマチュアと言っても限りなくプロに近いポジションにおられる方たちばかり、なおかつプロが使うような機材を購入し、維持できる、どちらかというと経済的にも恵まれた方たちが集まり、自分たちの写真技術や情報の交換のための趣味のクラブで、カメラの趣味も20年などと豪語する、古くから写真を愛する人達が集まるクラブでもあります。



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長い間趣味としてカメラを扱う方たちですから、当然のようにフィルムを使うカメラで、気に入った写真はプリントすることを前提に写真を撮られています。

写真というものの根源的な仕組みは、光によって変質する化学薬品を塗布した「フィルム」にレンズを通して光を当て、その時と場所を記録することです。薬品を塗布した「フィルム」の代わりに感知した光を電気信号に変換したものがデジタルカメラです。

光の量を加減することで起こる化学変化をコントロールし、画像として定着させるのですから、カメラマンの仕事は化学だと公言していたプロのカメラマンも何人か知っておりますが、今回の写真展は改めてそのことを感じさせてくれた写真展でした。カメラといえば「デジタル」が当たり前で、今更フィルムを使っての写真?なんて時代にもかかわらず。



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何を撮るかなんてそれこそ目に映るモノすべてが被写体ではありますが、今回は自然をモチーフにした風景写真、自然の持つ美しさ、荘厳さ、厳しさなどをどのように表現し、どのように伝えるのか。当然同じ場所でも季節によって変わりますし、一日のうちでも朝から夕方、雨や曇と言ったお天気によっても大きく変わります。

素晴らしい、と感じられる風景をお題にした大喜利でどう受けを取れるかを考える。太陽からの光の位置を考えると時間的には何時がいいのか、レンズは広角が良いのか、望遠が良いのか、画面の中に入る雲や人、街灯などの外からの光が入る場合はどうあればいいのかなど、記録に残すだけならシャッタースピードと絞りで露出さえ合わせれば写真は撮れますが、記憶に残って欲しいと頭に描く写真を撮るためにどこまで拘るかで仕上がりに大きな差が出来ます。

今回の写真展に出品された作品たちは全て、そんな理想に近づけるためにこだわり抜いた作品ばかりで、技術的にも非常に高く、考えぬかれた画面構成も相まって非常に満足できた展覧会でした。

そのような観点から言えば、絵画や彫刻と何ら変わることのない芸術性の高い趣味ですが、デジタルという技術が今までのブラックボックスで、表現するために必要とされていた高いスキルをコモディティー化した現在は、Artとしての写真はこの先どのように評価され、どのようなマネタイズシステムが出来ていくのか非常に興味あります。




素人の時代だと言うけれど

前回のブログで、フィルムで写真を撮るという行為に関して突き詰めていけば「化学」と書きましたが、つい何年か前までは、感光剤であるフィルムの感度はASAとかISOと言われた基準で100とか400のフィルムが流通していて、レンズの明るさf=2.8とかf=5.6とかだと、35mmカメラの標準焦点距離と言われる50mmのレンズを使い、絞り開放でも明るい夕方ぐらいでしか手持ちで撮影など出来ませんでした。

広角レンズで35mmや28mmと言った焦点距離のものでしたら、シャッタースピード1/30秒でも手ぶれはそれほど目立たない写真が撮れたかもしれませんが、135mmとか200mmの望遠レンズなどでは、手ぶれさせない技術を持った人か、運を味方に付けるしか手持ちでの撮影フィルムを仕事で使うにはリスクが伴うものでした。だからチャンとした写真を撮るために、スキルと技術を持ったプロにお金を払って撮影してもらっていました。

でもいまのデジタルカメラは人が持っていたスキルと技術を、カメラ自身が持つようになり、手ぶれ防止デバイスや感度を上げることによって普通の風景などを撮るだけでしたら、誰が撮ってもちゃんと撮れるようになり、細かいディティーにさえ目を瞑れば仕事用の写真でも使えるようになりました。

私の仕事のグラフィックデザインや、映像関係でも同じようなことが言えるようです。誰でもPCとソフトをを使いこなすスキルを持てば、デザインできるし映像も作れます。

作れるけれどそれは記録でしかありません、印象に残るものを作るためには意図とするものを象徴的に表現する力が必要なのです。写真で言えば手前の静物を撮るにしても背景を柔らかくぼかして表現するとか、背景と人物両方にピントが来るように表現するとか、こう言う写真を撮るためのテクニックが必要です。

デザインでもそうです、お客さんとの企業リポートの事前打ち合わせで、かなり長い文章を全ページ通して読みやすく表現することを一番に考慮し、本文の書体や文字の大きさ、行間にいたるまで全体のフォーマットをプレゼンして通し、すでに実作業に入っていますが、今になって別の部署からクレームが来ていると連絡がありました。現在進めている本文の書体、明朝体からゴシックに変更して欲しいと。

長い文章を読みやすい書体で表現するのは、現在文字として流通しているモノを調べてみれば判りやすいでしょう。小説は?文庫本もそうだし、新聞の本文はどんな書体が使われていますか、文字を読む人間がどんなものを受け入れているのか、読みやすさを考えるのだったら色々と使われて淘汰されて、残ったものを使うのは当たり前。印刷されたものを長年見ているからこそ解るものはたくさんあります、昨日今日PCでレイアウト出来るようになった人が、思いつきで話しをしそれを選んだ理由をきちんと説明するのにも最近疲れてきたよ。

企業としてキチンとしたものを作っていくのは当たり前のことだけど、クライアントの担当者がデザインのディティールまで口を挟むことではないのではないか、表現するうえでもっと上流の、何の話をどうやってや、表現の方向性についての社内コンセンサスなど、専門領域は専門家に任せて、全体を俯瞰してハンドリングすることの方が大切だと思うよ。

担当者に言われてハイハイとただ聞いてくるだけの代理店の担当者も呆れて物が言えないが、こちらはもともとハウスエージェンシーで他所との競争が無い分、処世術なのか物を考えない性格なのか解らないけれど、そんないい加減に物事進めて作ったもので賞を取りたいと聞くと、素人とは言え物事を知らなすぎなこの業界人を見て、デザイナーの仕事を続けていく気力が失せます。トホホ。




やっぱり広告は文化なんだな

先週の東京都内はお盆と夏休みで、通勤で乗る朝晩の電車も身動きがとれないほどの混み方もなく、涼しい車内ではほとんど本を読んでいますので、周りのことはあまり気にならないのですが、帰りがけの東海道線で東京駅から乗り(始発駅ですから座れるんです)、隣の新橋駅で乗客を乗せたあと、いつもと違う発車のベルに気が付きました。

サントリーのウィスキーのコマーシャルに使われている「ウィスキーがお好きでしょ、もうすこーし〜」というコマーシャルソングのメロディーを、発車のベルに使っていました。そうです石川さゆりさんが唄い、最近では小雪さんが演ずるCMに使われていた曲です。





ご存知のように・・・、大昔ですがサントリー宣伝部には山口瞳さんや開高健さんが在籍していたこともあり、非常にクォリティーの高い広告を作り発表してきました。宣伝広告というジャンルに限らず短編映画を見ているような、心に残るコマーシャルや広告をたくさん残してくれた会社でもあります。

そんな質の高い宣伝活動を長年続けてきたからでしょうか、今回のような電車の発車ベルみたいに5〜6秒程度のメロディーだけで、企業イメージを聴く人に伝え、呑んで帰るサラリーマンたちに、また飲みに行こうと言う動機づけを植えつける、そんな曲を沢山持っているからこそ発想できた、なんだかとても洗練された広告の手法に感じました。

話によると8月21日までの掲出らしいのですが、この新橋駅や神田駅だったら通年かけて使ってもいいんじゃないかと思っちゃいます。でもこの曲を電車の発車ベルにしようなんて思いついたクリエイターは誰なんだろう、今まで高田馬場などでは「鉄腕アトム」のメロディーを使うことはあっても、CMとして媒体にしてしまおうと考え交渉し実現した代理店はあっぱれですね。・・・多分汐留にある大きな代理店でしょうが。

でもいくら長いあいだコマーシャルを流しているからとは言え、短い時間で企業イメージを思い浮かべるようなメロディーを持つ会社なんて殆どありませんよ。有るとすれば「おやつはカール」の明治製菓と、「カステラ一番、電話は二番」の文明堂ぐらいでしょうか。

テレビCMや新聞雑誌といった従来通りの媒体以外にも、人の集まるところに媒体は転がっているのかもしれませんね、ただ誰も気がつかないだけで。




誰でもがツールを作れる時代になったけど。

お店の中

今年の春から自宅近所で営業している、知り合いのネパール人の経営する飲食店のお手伝いしています。お店の中で料理を運んだり、とかではなく、こんな料理出してみたら、とか、この料理はこんな売り方もあるんじゃない、など、お店の中で見たことで改善したほうがお客様に喜んでいただけるんじゃないかということを、第三者の目で客観的に伝え、改善していく目的で。

そんな事を半年も続けていくと、毎日ルーティーンワークで働く彼達では気がつかない点があるようで、多少重宝されているようです。

お店のある街は私が生まれ育った街で、地味な商店街がある程度の小さな町で、買い物やちょっとした飲み食いは電車で5分ほど行った大きな繁華街のあるターミナル駅へ行ってしまい、特に昼間は子供とお年寄りが多く、商店街もあまり人通りも無いので寂しく、そこで飲食店として商売するには結構大変な場所だと思います。

そんな場所にあるお店ですから、大手を振って繁盛店とは言えませんので広告などの宣伝費にはお金も使えません。だからお金をかけずに地域の人達にためらい無く入店でき、今あるものを有効に使ってくつろいで頂けるような店作りを目指して意見交換しています。出来れば内装や照明などのインテリアやエントランス周りも手を入れたいところですが、それは売上も向上した上でしかるべき時期が来てから。

知り合いの店舗経営者の考えとして、食事を出すだけでなく、夜はお酒もカジュアルに楽しんでもらえるような居酒屋をイメージしていましたが、居酒屋と同じようなメニューを揃えても、近所の本家居酒屋に値段でも負けてしまうので、そのお店らしい特徴のある料理で「先ずはこれ喰っとけ」的なメニューをつくり、居酒屋として来てくれるお客さんの「ハッピーアワー」として、飲み物とセットに成ったスタートセットメニューを作るなど、メニューの内容を整理しようとなりました。

その整理したメニューをきちんとお客様に伝えるために、メニューブックを作り替えることと、告知のためのフライヤーを作ることになり、今までも料理の写真は知人が自らコンパクトデジカメで撮影してきたのだけど、寒くなる時期に向かっての料理なので、暖かく美味しそうな湯気が立つようなシズル感が欲しく、今ある写真を撮り直すことになった。

自分が店で料理を提供している側からすれば、お客様に提供する料理のリアルな写真を撮ればいいと考えているようだけど、表現する側から言えば嘘は言えないけれど美味しく見せるための少しの嘘は有ってしかるべきで、例えばビールなどは泡の量を適量に見せるために食塩を入れて調整したり、グラスの周りに水滴を霧吹で吹いたり色々とやっている。

今回の料理も湯気が出ているのを表現したいが、実際の量でやると中に入っている材料などは殆ど見えないそうだ。そんな時は少しだけ嘘をついてスープの量を減らして撮影する、煮立った感じを出すときはバーナーなどで焼いた石を入れたりする。

紹介する写真に嘘があってはマズイが、美味しそうに見せるためのテクニックは有ってしかるべきだ。

フライヤー等の印刷物にしても、誰もがデザインできるようになってきたけれど、紙面の中ですべての文字が同じ大きさでメリハリがなく、ギッシリと詰まっていたら内容を理解する以前に見る気が失せてしまう。デジタルカメラやPCと言った道具が普及したことで誰でもがコミュニケーションツールを作れる時代になったけれど、今までの職人にはスキルだけではなくナレッジも必要だったことをお忘れなきよう。




異業種交流のオススメ

この10年くらいで大きく変わったなぁ、と思えることはWebを使ったCommunicationが、情報の流通を媒体から個人という上流から下流に流れるものに加え、個人同士の情報が水平に広がる動きが加わり「媒体から個人」という情報量の数倍の量の情報が流通していて、それが今まであった社会の仕組みさえ変えてしまっているということ。

広告などで言えば媒体の価値が下がり、デフレ状態で買ってくれなくなり、代理店の機能も以前ほど強いものではなくなってしまったことなどから、クライアント > 広告代理店 > 制作会社と言った従来の仕事の流れも主流ではなくなり、クライアント > 制作会社(デザイナーなど)に直接依頼が来るなど、仕事の流れも上流から下流へと流れるだけではなく、横に広がる流れが出てきたということ。

こうなってくると、代理店など組織で仕事をする団体ばかりではなく、デザイナーやコピーライター、カメラマンといった個人のクリエイターひとり一人にも、自分の仕事をアピールし、営業をするセンスと資質が求められるようになってきたと感じています。

確かに以前のクリエイターには必要なかったのかと言われると、必要ではあったけれど、それ以上にデザイナーやコピーライターなどその属している業種団体の中で、評価されれば上流から仕事はたくさん流れてきていたので、特に営業の資質は求められていなかったと思います。

だからか、クリエイターが付き合う友人はクリエイターという人が多く、他の業種の人達とお付き合いする事は少なかったように感じますし、実際私の周りの人たちも旦那さんがカメラマンで奥さんは編集者とか、旦那さんがデザイナーで奥さんが元コピーライターとか、パートナーを身近なところで調達している人が多かったと感じます。

Communicationをクリエイティブする職業につきたいと希望する若いクリエイターたちは、クリエイティブ以前にもたくさんの人と交流し、人脈を広げておく事を強く薦めます。ある程度社会で仕事を任せられるようになった時に、その人脈が大きく左右されるようになりますから。その人脈に加え、自分のクリエイティブ力がどのように、どれだけ力を持っているのかを、きちんと周りにアピールする必要もありますね、あまりにも未熟なものを見せられるのは、勘弁願いたいと思いますが。




変わったことと、変わらないもの。

デザイン制作というサービス業の中で一番大きく変わってしまったのは、写真を現像する必要がなくなった、版下を作る必要が無くなり写植も無くなった、写真を製版する高性能スキャナーやオフセット印刷用のフィルムが必要なくなった、これらに共通するのは全てある程度の資本を投下し、設備投資しないと出来ない作業で、その資本を回収するために外部からの評価を一定にする必要があり、仕事内容を担保するため高度にプロ化していた。

カメラがデジタル化し、画素数も飛躍的に高くなった結果、印刷に耐えられるデーターを作ることが出来るようになった。パーソナルコンピュータで組版(DTP)が可能になり、写植や版下を作る事が無くなった。写真を製版する必要が無くなりCTPの登場でフィルムも必要なくなった。このことで仕事の効率が上がり収益だけ上がればよかったのだけれど、設備に対する投資とコストが小さくなると同時に、仕事に対しての責任と誇りといったプロ意識が希薄になってきたし、それを許す(知らないから求めない?)から内容よりも短い納期と安い金額が求められるようになって来てしまったと感じます。

でも一番変わったのは制作側に居る人間なのかもしれません、カメラマンやデザイナーをやっていた友人たちも、環境が大きく変わってしまったことで廃業した人もたくさん居ます。今現役の若いデザイナーさん達も代理店やプロダクションなど、制作の先輩たちからトレーニング受けている人ばかりではなく、PCとソフトを使って何かしら形を作れることで、デザイナーと肩書きを付けている人も居ます。ライティングを知らないで、デジカメで撮影してカメラマンの肩書きをもつ人も居ますけれど。

ソーシャルメディアが人々に認知され、参加する人が増えていくのに対し、既存のメディアに対して関心が薄れ、媒体としての価値も下がったことで、マスメディアを通してたくさんの人にメッセージを送ることから、マスメディアとソーシャルメディアを複合的に使い、より深いコミュニケーションを取ることを求められてきていると思います。言葉を変えれば100万人へのメッセージから100人へのメッセージへと。

ソーシャルメディアへのエントリーは、ネットリテラシーと少しでも気の利いた文章を書ければ可能ですが、料金が安くなったとは言えマスメディアへの出稿は、印刷原稿の制作などでまだまだ専門知識が必要とされています。以前この原稿を使ってとRGBのロゴデーターもらったことはありましたが、最近は同業のプロだと思っていた編集の担当者も職域を超えたムチャ振りをしてきたのにはびっくり。

自分のスキルが伴わないままに、現場でクライアントを担当させられ、その要望に応えるために自分の持っているスキルでは応えられず、制作の現場にムチャ振りしてくる。クライアントと直接コミュニケーション取れない制作の現場が、構成などの提案を持込の自主プレゼンみたいに出せるわけはなく、クライアントと直接打ち合わせできるディレクターが行うべき仕事です。ディレクターの仕事の何が面白いって、そこに尽きると思うんですけどね。

環境によって仕事の方法はいろいろな形に変わっていきますけれど、仕事として物を作ることを依頼され、作り上げるにはメディアリテラシーが必要なのと、クライアントのペルソナをすくい上げ、形にする能力は変わってはいませんよ。新しいメディアが登場してきた現在でも、たぶんこれからも。




仕事ってだいたいがカッコ悪いよ。

どんな仕事だって見た目カッコイイっこいいところもあるし、もちろんカッコ悪いところもあるよ。デザインにしたって机の前で資料探して、時代のエッセンスを切り取ってカッコイイと思える部分も確かにあるけど、そんな所は全体の仕事量を10としたら、せいぜい0.5くらいじゃないだろうか。残りの9.5は事務処理やらお金の計算やら根回しやらと、どんな仕事にだって黙々とこなさなければならないことはある。

ある程度仕事に慣れてくれば、その配分を自分の裁量でスケジューリングするなり、外注に出すなりと自分の仕事の長けた部分とそうでない部分を分けることで、自分の仕事としての特徴などもでるし、それが評価されることで仕事のダイナミズムや楽しみになっていくと思う。

最近今居る事務所内で、クライアントが株式会社などの一般企業ではなく、学校法人も含まれてきました。社長ではなく理事長、専務ではなく事務局長、取締役ではなく理事など呼び方が違うのもありますが、一番違うと感じたのはあまり開かれた組織ではない。という事。

当然株主に向けてのIRの公開や、情報公開など一般企業とは違うでしょうし、組織内や業界内での約束事もあるし、一概に開かれた組織でないとダメとは言いませんが、仕事をしてみてやりにくいと感じるのは窓口となる担当者。組織自体が閉ざされているからなのか、その組織だけの特徴なのかはわかりませんが、仕事が進まない、してくれない、自分の意見を持たない、上の機嫌ばかり気にしてる。仕事として受けているのはコミュニケーションツールの制作なので、その時代や雰囲気で表現するものも、方法も変わってきますが、とにかく新しい事をしようとしない。

以前作ったものは一応内部的にオーソライズされているので、どこからもクレームは付かないでしょうが、伝えたいと思う人に伝えるべきことを制約されるのはデメリットとしか思えません。トイレ掃除などは各ご家庭で生活する上で各人行われていると思いますが、モップやブラシだけでなく、自らの手を突っ込まないと汚れた部分をきれいにすることなんて出来やしません。

株式会社だろうと学校法人だろうと仕事も同じです、根回しなどメンドクサいと思ってほったらかしていると、汚れはどんどん貯まっていきます、仕事なんてサッサと終わらせてご飯でも食べに行きましょう。




見慣れているのは見やすいですか?

最近チラシなどで時々見かけるようになった、文字組を紙面の左右ワンブロックで組んじゃう印刷物。写真や表組みに合わせて文字組みも左右1ブロックに組んじゃうんだろうけれど、これが読みにくい。

興味を引かないタイトルなら端から読もうとは思わないのだけれど、たまたま興味のある商品や事柄を説明する文章だから読もうと思うんだけれど、文字を追っていっても何行目を読んでいたのかわからなくなってしまうこともしばしばある。

読みやすい文章を表現するには、文字の大きさもあるけれど、文字組1行の文字数も関係してくるし、行毎の文字と文字との空き、行間も大きく関係してくる。今回感じたような文字の読みにくさの原因ってWordが原因じゃないかと思っている。英語圏のワードプロセッサーソフトとして支持され、業務用のドキュメント制作に使われてきたものを、英語と日本語の組版の違いをあまり考慮せず、文字をアルファベットから日本語に置き換えただけ。

英語は一文字づつではなく、単語として並べてあるので行間をあまり取らなくても、あまり読みにくさは感じないけれど、日本語は句読点や漢字やかながあるけれど、単語ごとに区切っていないので見た目がどうしても単調になりやすい。だから行と行の間を一定の間隔を開け、メリハリをつけてやらないと読みにくいものになってしまうのが日本語の特徴だったのを、技術的なものもあったのかもしれないけれど、その特徴を考慮せずに置き換え、一般に広まってしまったことでその文字組も普遍的なものとして受け入れられるようになってしまったのではないかと思う。

テクニカルな言い方をすれば、雑誌広告でもチラシでもパンフレットでも本文と呼ばれるボディコピーを組むためには、限り有るスペースの中で存在感を消しつつ多くの情報を伝達する目的があるので、大きすぎない文字の大きさ、かつ読みやすい大きさで一つの項目として認知されるようなボリュームと読みやすい行間から、職人的な技を求められると思います。

でも一番大切なのは、その文章が広告であれ、パンフレットであれ、チラシであれ、報告書やプレゼン用のドキュメントであれ、見る人に意図するものを伝えたい、自分の考えを最後まで読み通してもらいたい、そのドキュメントを手にした人が見やすく読みやすいという、自分本位ではなく相手に伝えるという戦略的デザインが必要だということです。




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