RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

明と暗

昔話


私は今現在、趣味としてクルマやバイクが好きです。

バイクは数年前に一度乗る事を止めましたけれど、クルマでもツーリングで美味しいモノを食べに行ったり、同じような家族同士で旅行に行ったり。

中学の頃でしたかスーパーカーブームがあり、一時排ガス規制で落ち込んだ日本の自動車メーカーも、ちょうどその頃を境に世界的に巻き起こった環境問題から、ドメスティック企業からグローバル企業へと変換を迎えた時期でもありました。

もちろんモータースポーツも好きでしたが、サーキットに行くほどの熱い気持ちもなく、雑誌やテレビで見るだけの物でしたが、人づてで回ってきたHONDAのお仕事で「行くならF1のチケット手にはいるよ」と誘っていただき、フジテレビで放映もされ人気も高く、HONDAが破竹の勢いで勝ち続けたF1参戦第2期を休止した翌年。

セナとシューマッハが鈴鹿で最後に対決した1993年、初めて三重県の鈴鹿サーキットへ足を運びました。

鈴鹿サーキットでの観戦は、F1サーカスと呼ばれた文化を、クルマ好きが集まってのお祭り騒ぎ。

と表現すればよいのでしょうか、F1 Weekと言われた木曜日のフリー走行から、決勝まで4日間ベタに鑑賞させていただきました。

確かに予選の土曜・決勝の日曜日は、15万人と言われた観客が移動するわけですから、延々と続く人また人の列びに合わせ移動しますが、サーキット内部や、最寄り駅の近鉄白子駅などは、慣れた物で混乱と言える物もなく、決勝日の夜にテレビで放映されたのを、横浜の自宅に帰って見る事が出来ましたので、人は多かったけれども、こんな物か。が正直な感想でした。

「こんな物」ってレースの事じゃありませんよ、F1はレーシングカーの中でも別格なのでしょう、あの頃のV10やV12気筒エンジンの上げるエクゾーストノートは鳥肌物で、いまだに耳に残っています。

色々なメーカーがエンジン供給をしていましたが、とりわけフェラーリのエンジン音は聞いただけで「フェラーリ」だと分かるほど甲高く、金管楽器のような音がファンを魅了するのでしょう。



一昨年・昨年・現在


2006年でしたか、翌年のF1スケジュールが発表された時、JAPANは富士スピードウェイで開催となっていました。

かみさんの実家が御殿場市で、家の外からメインスタンドも見えるほどご近所さんでの開催です。

数年前に元の所有社だった三菱地所がサーキット閉鎖を決めた時、TOYOTAが買い取り、大々的に改修工事を行っていましたので、世界のTOYOTAが本格的に製品販売以外の自動車文化に参戦か、と思った物です。

その後Web上のニュースサイトに掲載された物に、鈴鹿サーキット側がコースマーシャルなど、F1運営で培って来たノウハウを提供し、お手伝いしましょうか。

と富士スピードウェー側に打診したが、断られたとありました。

まぁ、業界トップの企業ですから、自信も誇りもあったんでしょうが、結果は皆さんご存知のとおり。

昨日観戦に行って被害を受けたと、集団訴訟されました。

F1が開催された頃の鈴鹿サーキットも、問題が全く無かったわけではないのでしょうが、1962年に車を作り始めると発表したばかりの企業が、3年後の1964年、いきなりヨーロッパF1に参戦すると言うようなクルマ好きの企業が、祭を楽しむ人の方を向いて運営・開催されていたからこそ、今まで多くのモータースポーツファンに支持されていたのでしょう。

今回アクセスの問題で集団訴訟を起こされたわけですが、その他にもWeb上では色々と言われています。

今までヨーロッパを含むF1観戦する人たちは、サッカー観戦のように応援するチームやドライバーの旗やバナーなど、スタンドの手すりなどに結び、祭を盛り上げていましたが、昨年はサーキット側の管理上の問題からなのか、旗やバナーの掲載を禁止しました。

ところが親会社のTOYOTAチーム1チームだけ、大きな旗を掲げていてこれも大ブーイング。

一つの企業は新聞の社会面に集団訴訟されたとニュースになり、もう一つの企業は経済面に新型燃料電池車「FCXクラリティ」のラインオフがニュースになっていたことを見て、企業は自社の都合で物事を判断せず、ユーザーの気持を汲む努力をしないと、広報やCSRと言った活動で企業イメージの向上を狙っても、どこかに落とし穴が潜んでいると。

「他人のふり見て我が身をなおせ」昔の人はよく言った物です。




ブランディングは企業戦略か?

ブランディングは誰のため?



先日友人で、地域の基幹病院で経営側にいる方と話しをしていました。
中でも継続的に基幹病院として、地元社会の中で地域医療を行っていくためには、看護師不足を克服するためにも、現在院内スタッフで作ったWebサイトをリニューアル・充実させ、ブランディングを強化し、競合医療機関との差別化も行う。

との事でしたが、ある日彼曰く「患者さんに現在有るサイトを見ていただき、ご意見を頂戴しましたら、全員現状のサイトデザインで満足し、お金を掛けてリニューアルする必要があるのか」と言われてしまったそうです。

ちょっと待ってよ、サイトをリニューアル・充実させるという行為は、何の目的のためにするの?。

実際に言葉としては言っていませんが、患者さん(お客さん)がお宅の病院(会社)のブランディング・差別化を望んでいるとでも思っているの?。

診療予約や診察日を調べるなど、窓口としてサイトを利用しているならば、使い勝手などに要望が出るかもしれないけれど、医療機関としてのブランド確立なんか、患者さんから意見でるわけ無いし、確立しようと考えているのは、患者さんではなく、あなた方病院の方でしょ。

ブランドって競合他社との差別化の為、差別という言葉は使いたくないのでしたら、個性化でもSTYLEでも良いでしょう。

ブランディングの為に何を「しなければ」いけないか、とよく聞かれますが、反対に「して」はいけないか、を決める事だと思います。

繁華街で時たま見かける、肩で風切るハードにボイルドされたお兄さん達は、けしてお年寄りに優しく「して」はいないし、「した」ら周りからどう見られるか、ブランディングの達人ではないのでしょうが、クールに生きていくためには「したらいけない」をよく知っていると思います。

・・・中には見た目と正反対に一見怖そうで、実は優しいお兄さんも沢山いるとは思いますが。

ただし、この様なお兄さん達を支持する方達は少数派で、この方向はニッチマーケットの部類でしょう。

何を目的にブランディングを行うのか、集客力のアップ?・客単価のアップ?・良質なユーザーの囲い込み?・CSR(企業が果たすべき社会的責任)の為?等々、色々と思惑もあり一つに決めるのも難しいかもしれませんが、多くの人が納得せざるを得ない答えとして「自分の持つ能力で、社会とコミュニケーションを取り、永続的な企業として発展する。」事につきるのではないでしょうか。



ブランディングは企業と社会のコミュニケーション?



一言で企業と社会のコミュニケーションで頭に浮かぶ物は、お店などでしたら販売員とお客様でしょうか、新聞に入っている折り込みチラシや、テレビ・ラジオのCMもそうです。

映像にしても音声にしても、印刷物にしても企業から社外へ情報を伝える行為は、全てコミュニケーションと考えて差し支えないでしょう。

ただしこれらは企業から社会への一方通行のコミュニケーションです、大手企業などではカスタマーセンターやお客様相談室と言った部署が、お客様の声を直接伺い、CS活動に繋げる「双方向コミュニケーション」がなされています。

とりあえずブランディングに絡んだコミュニケーションの話なので、双方向コミュニケーションは棚に置き、企業側から発信するモノについて書きます。

企業から受けるイメージは全て、コミュニケーションの質によって作られます。「接客がよかった」「新聞広告に共感できた」「商品紹介パンフレットからキチンと伝える努力が伺えた」等々。

ビジュアルから伝わるイメージが=その企業のイメージに繋がります。

また「商品を沢山の人に、子供からお年寄りまで手にしていただきたい。」と言った場合、TVCMから、スーパーなどのチラシに数多く露出する、折り込みチラシをまく。

反対に「一部富裕層に、ステータスのある高価な商品を手にしていただきたい。」だと、全国紙の新聞に全面イメージ広告を掲載する、富裕層が趣味で読む専門誌に掲載するなど、メディア戦略でもブランディングは左右されます。

ブランディング一つで企業の経営理念から営業戦略まで変わります、例えば製造業だと、製品作りの方向性が明確になり、全ての社員が仕事の目的を共有する事が出来「全社一丸となってのプロジェクト」なども達成しやすくなります。

企業ブランディングの指揮を執り、第一線で舵取りするのは部署の中でも「広報(広告)部門」が担当されていると思います。

この事から企業の経営者サイドには、広報を良く理解した者が付く事が多くなるなど、企業の中でも重要な部署の一つとして、認知されるようになりました。

上では差別化や個性化、STYLEと表現しましたが、人と同じようにブランドも成長します。要素としては新素材・新製品登場などによる、自社製品の変化。社会環境・意識の変化。

ブランドの変化を一言で言えば「自分(企業)の足許を見つめ、環境の変化に合わせ自らも変化させる」です。現在の企業経営は社会と良好なコミュニケーションを取り、社会と共に成長・発展する事を求められています。




企業はWeb上で動画を積極的に活用しよう

当然プロモーションです。全ての業種とは言いませんが、趣味の領域にまで行っている商品は、素人さんが好きで撮影・編集し、YouTubeなどにアップされ、世界中の好き者達が閲覧し、自分がユーザーになる疑似体験をしています。

趣味の奥は深いのです、思いつくまま論ってみると、バイク・クルマ・鉄道・プラモ・ゲーム・アニメ・肉体改造・スポーツ・読書・カメラ・ビデオ・皐月・盆栽・犬・ネコ・釣り・熱帯魚・カメ・・・等々、カメは趣味じゃないか?

アニメでは角川がすでにもう始めていますが、MADと言う既存のアニメ映像と音楽を合わせ、独自のプロモーション映像のようなムービーを、作り公表するのが昔からアニメファンの間で行われていましたが、パソコンやソフトのの普及、YouTubeなどの映像投稿サイトの出現で、そう言ったファンがふえ、著作権法違反と押さえつけ規制するよりも、良い作品には著作権者から公認され、アニメファンに楽しんでもらい、顧客でもあるマーケットを活発にする事で、企業の繁栄に繋げるのが目的でしょう。

鉄道などでは「世界の車窓から」なんて長寿番組もありますが、キレイな景色だけがムービーとして、もて囃される訳じゃありませんよね。

私なんか通勤電車でも、先頭車両に乗り合わせた時には、運転席からの風景をただじっと眺めているのがとても好きです。

人間が潜在的に楽しいと感じる物を、企業はもっと企業価値を上げるために使ってもイイと思うんですけどね。

ロジェ・カイヨワ(1913〜1978年)フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者ですが、人間は本能でなぜ遊びが楽しいかを、アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(めまい)の4種類に分類できると言っています。

そんな人の本能的な楽しさを作って公表し、ステークホルダーに喜んでもらいマーケットを広げ、企業イメージ向上のために脳みそ絞りましょう。

ただし作ったからと言って、すぐに企業価値が上がると思ってはいけませんよ、盆栽と一緒で長い時間が掛かりますよ。

コモディティー化が進んで、作って公表する費用なんて、タダみたいな物でしょうから。




業務の本筋・原則を忘れるな

数年前まで、私はクルマやバイクのクラブで、良く幹事のような事をやらされていた。

乗っていたのが、余り人気のないマイノリティーの部類だったので、クラブと言っても数十人程度のこぢんまりとした所帯だ。

マイノリティーな部類の乗り物でも、日本全国まで範囲を広げると、数自体は少ないものの、クラブ員は日本全国に散らばって存在している。

年に何度か、近くの人たちとツーリングに行ったり、食事をしたり飲みに行ったりしていたが、年に一度位はみんなで集まろうと、一泊でリゾートホテルに集まり親交を深めていた。

リゾートホテルに泊まると言っても、その地での観光をするのが目的ではない。

ツーリングとして行くまでの過程を楽しみ、久しぶりに会う友人と会えるのを楽しみに行くのだ。

だから他の一般客の方達とは目的が異なり、ホテルに対しての要求も変わってくる。

一般客の方達は、旅行会社が企画するツアーなどで集まり、宿泊するのだろうが、現在多くのツアーは「交通費宿泊料理込みでこの値段」と、有名リゾート観光地に安価で行ける事を目的として来ている。



日本の経済構造は製造業などの第二次産業が輸出をする事で、成り立ってきた。

しかし製造業は基幹産業ではあるが、右肩上がりの成長から現状維持のゼロ成長に移行する可能性が大きく、これを今後成長が見込める第三次産業であるサービス業に移行すべきと、環境や雇用の問題などからも言われている。

現在日本のサービス業は、アメリカやヨーロッパに比べ、効率が悪いと言われる。

リゾートホテルなどの観光業にしてもそうなのだろう、単独で営業していくよりも、グループに属し、施設のマネージメントや集客のための広告、タオルや石けんシャンプーと言ったホスピタリティーグッズなど、様々な観点から効率化をめざしている。

ベテランスタッフがお客様一人ひとりの要求に、細かく対応し満足して貰うよりも、マネージャーの数を抑え、アルバイトやパートのスタッフで、本部が決め、セントラルキッチンで作った料理を、温め、アレンジして出す方が効率がよいのだろう。

この様な営業方法では、画一的な目的を持った顧客には有効なのだろうが、上記に書いたような、一般客と目的が異なる客の要求には、応えられないシステムになっている。

効率を追求するのは、働く人にとっても企業にとっても、顧客にとっても有益なはずだが、根本的な業務の原則を忘れている。

誰も写真で見た景色の中で過ごすために集まり、鶏小屋みたいに同じ方を向いて、同じものを食べれば済むとは考えたくない。

そのホテルでの数時間を、満足して過ごしたいのだ。

ビジネスホテルやシティーホテルとは宿泊する目的が違うのだ、何が何でもお客様を一つの型にはめこみ、アラカルトは一切認められないのは非常に疑問だ。

サービス業はサービスを提供し、その満足に対して対価を求めるのが原則だろう、これは飲食店や小売店など、全てのサービス業に共通する本筋だと思う。

他店との差別化を図り、自社のブランドを確立するためには、原則として求められる筋を通すのが当然だろう、出来なければその内に淘汰されていくかもしれない。




アメリカ国民の意識に変化が見える

大統領がオバマ氏に替わったこともありますが、今回気がついたというか、変わってきたと感じたのが漫画・コミック、向こうで言うカトゥーンです。

皆さんご存じのように、アメコミと言われるヒーロー漫画では、様々なヒーローが登場し、悪を倒し平和な世界を築くというストーリーが、王道として表現されてきました。

スーパーマンを始め、スパイダーマン、バットマンなどの多くが映画化され、世界中の多くの人に愛されています。

漫画という世界では、アメコミという確立されたカテゴリー以外にも、日本の漫画が最近は良く読まれ、評判も高くなっており、2003年にはアメリカでの漫画販売数が、アメコミの販売数を抜き、その差も毎年拡大しています。

アメコミと日本の漫画を比べ、一番大きく差を感じるのは、突出した勧善懲悪のヒーローの存在でしょうか、日本の漫画の中にも主人公はいますが、主人公を含めた社会環境と、周りの人との関係はもう少し描き込んであるように感じます。

なぜこのような同じ漫画でも表現に差が出たのでしょうか、非常に興味がありますが、私は宗教観の差からではないかと考えます。

日本はいわゆる八百万の神様がいると言われ、宗教的には仏教の教えを受け入れながら、神社にも詣でると言った、宗教の中でも多様性を認める多神教の社会です。

欧米はキリスト教を中心とした一神教、一人の神様が良い行いをすれば、死んだ後も天国へ行けると教え、神の名の下に社会活動を行い暮らす世界、キリストは世界一のヒーローなのかもしれません。

一神教の教えを何代も続けていく内に、悪を滅ぼし平和な世界を作るのは、一人のヒーローが当たり前と感じたのでしょう。

それに比べ日本では、森の中にも、大きな木のほこらにも、暗い押し入れの中にも神様がいるし、道を歩けば道祖神や、お稲荷さんがあちらこちらに沢山います。

妖怪という形で、未知のもの・物の怪など、分からない何かとも一緒に暮らしていたりします。

現在アメリカの映画産業では、原作を日本の漫画にもとめ、「マッハGo Go Go!」や「ドラゴンボール」などが公開されたり、制作の準備に入った漫画もあります。

強い一人のヒーローから、主人公を取り巻く人や環境とストーリーを重視する、多様性の中の正義を表現する作品が増えてきていると感じます。

今までは「アメリカンドリーム」という言葉が示すように、他の人にない何か新しい物を考え出せば、大金を手に入れる事が出来る市場原理主義でした。

しかし、アメリカという国がオバマ大統領に替わり、年間所得一世帯で25万ドル以上の場合、税率はこれまでの33%が36%に、年間所得37万ドル以上の場合は35%から39.6%に、それぞれ引き上げられる予算案が提出されました。

国民の求めるエンターテインメントの変化と、所得の再分配を求める声の大元は、同じ場所にあるのではないでしょうか。

HBSを卒業し、MBAを取得しているから。大企業のCEOとしてマネージメントしているから。

一部の人間が一人で年間数億ドルの賃金を貰っている一方、労働者の賃金は数万ドルと、格差があまりにもかけ離れすぎた事が、一つの原因かもしれません。

経済学者も「社会主義科するアメリカ経済」など、成長を危惧する発言も目立ちます。

しかし地球温暖化ガスの上昇は、GDPの動きに合わせるように上昇している事を考えると、化石燃料の代替エネルギーが発明されるまでは、成長をある一定の所で押さえる必要があるのかもしれません。

社会主義はソ連の崩壊と共に国家のシステムとして不適切だったと認識され、中国も経済的に資本主義体制を大幅に進めています。

でも現在のアメリカの様子を見ると、今までの西側諸国が進めてきた資本主義体制が、曲がり角に来ていると感じられます。

一人だけの大金持ちのヒーローより、多くの国民が豊かに、持続可能で安心して暮らせる社会を求める、新しい資本主義社会を模索しているのではないでしょうか。




正義の人

漫画や映画、テレビ番組に登場する正義の人は、まぁ見ていて楽しいし、すっきりもしたりする。

「このお方をどなたと心得る、先の副将軍〜」の一言が出ると、テレビの前の視聴者は待ってましたとばかり、勧善懲悪のわかりやすいヒーロー登場で一件落着なのだが、世の中は勧善懲悪ばかりではなくもう少し複雑だ。

たとえば路上を走るビックスクーターに乗る若者などは、走るときにクルマの運転手に自分を主張する為に、マフラーを変え、耳をもつんざく爆音で走り去る。

これは彼の安全に走るための、彼自身が思う正義である。

これを路上で見る歩行者や、ドライバーは「うるさいバイク」「迷惑なバイク」と感じるが、これは歩行者やドライバーから見た社会的正義だろう。

社会の中の事象には「する事で得るものと、失うもの」の必ず二つがある。

豊かな自然を持つ森に、住民が便利だろうと道路を通せば「便利」を得た代わりに「豊かな自然」を失う。

世の中のものは、得るものと失うものが、何かしらトレードオフの関係にある。

それを関係者で協議し、合理的なところでお互いの主張に折り合いをつける。


しかし中には、自分の持つ権利という色眼鏡を通して物事を見る人がいる、過激な行動が目に余る環境保護団体なども、自分たちの主張が絶対的な正義として、意見を曲げようとしない、合理的な落としどころに行き着かないのである。

みんな自分に都合の良いように出来事を見、自分の色眼鏡で見て解釈しているのである、そんな見方をしていては何が真理なのか見えまい。

そんな正義の人と話をしても平行線のまま決着が付かない、往々にしてお互いが主観的な話になってしまい、怒って席を立つのが関の山だろう。

自分の考える正義が本当に正しいのか疑い、自分が間違っているかもしれないという可能性を考えるのも、先に進んでいこうというプロセスのスタートではないだろうか。

こんな事が嫌いだからか、宗教はあまり好きではない、・・・古い教会や神社仏閣と言った、宗教文化や美術は大好きなんですけれどね。

嫌いな方の宗教、特にカルトと呼ばれ、教祖さまがいたり縛りが強い宗教団体は、そもそも信者をコントロールしやすいように色眼鏡を強要する。

宗教に限らず、何でそうなったかをよく調べずに、主観という感情で物を言う人はもっと苦手だ、やってきた内容の是非を問うのではなく、やり方しか批判出来ないのもみんな似通っている。


例えば先日の大阪府知事就任1周年で、橋下知事に対する批判の声


・知事の手法は、俗っぽくいえば「かまし」「はったり」。行政の長としての手法とは異なる。修正を望みます。
・180万人の支持を受けたからと鼻高々で、府の権力をすべて握ったと錯覚しているようだ。
・「思いつき」が「思い込み」になり、今や「思い上がり」になっている。リーダーシップをもう一度考え直すべきだ。
・役人いじめの言動にはうんざり。府職員が今まで積み上げてきたことが全否定されているみたいです。
・「赤字だから廃止する」という考え方は「あたたかい行政配慮」に欠けると思います。
毎日新聞2009年1月25日付け朝刊27面


みんなやり方・手法に付いての批判しかなく、具体的な内容が無いのが共通している。

火事を見に行った野次馬が「火事だ大変だ」と周りで騒ぐだけで、火を消そうとしないのに似ている。・・・と言うか消し方が分からないので、周りで騒いでいるだけなのか。

結局何も出来ない行動は、本当に正義なのか、ただのお遊びじゃないか?。

そんなお遊びをいかにも正当化し、プライベートな正義を声高に言う、落とし処を見つけられずに同じ色眼鏡を強要する「正義の人」とは、一緒に仕事出来ません。




Webと言う名の社会

すでにがっぷり四つに組んでWebを生活の一部としている方には、何を今さらでしょうが、おさらいとして確認するところから入ってみたいと思います。

生活の中にインターネットが入ってきたことで、大きく生活も変わってきました。

今まで人の記憶を脳以外に残しておくことは、文字・音楽、写真や映像に置き換えて保存するしかなかった物を、データーとしてコンピューターに保存できるようになり、ネットで繋ぐことで情報という名の記憶を、世界の人と共有することが可能になりました。

その情報がどこにあるのか調べ上げて「ここにあるよ」と教えてくれるのが、Googleを始めとする検索サイトでしょう。

今までそんな情報が有ることすら知らなかった物ですが、文字や写真などのデーターとしてインターネット上に公開してあれば、欲しいと思う人が検索することでコミュニケーションする事も可能になりました。

今までは企業が社会とコミュニケーションするためには、新聞や雑誌、テレビと言ったメディアを通してでしか出来なかったことから、PRという仕事は、プレスリリースをメディアに取り上げてもらえるように力を注いでいました。

でも現在では企業側からの情報は、メディアを通さなくても、ダイレクトに社会に伝えることが可能になっていますし、反対に聴く事も出来るようになっています。

流通にしてもそうです、今まではデパートやスーパーと言ったお店を通して購入していた物が、Webページを窓口に様々な物が購入出来るようになりました。

しかもスーパーなどに並んでいるナショナルブランドの商品だけではなく、旅行に行って口にし、美味しいと感激したような物まで、ダイレクトに購入することも可能です。

数十年前に買うことの出来なかった物さえ、Yahoo!のオークションを覗いてみると見つかることも少なくありません。


先日のコラムにも書きましたが、生活している社会にWebという社会が増えたのです。

今までの実社会中心から、Webに乗り換えなければと言っているのではありません、実社会とWebと両方の社会を考えていかなければいけないのです。

これからの企業活動は、この新しく増えたWebという社会と上手く付き合っていかなければ、企業として、組織として活動が出来ない時が来ます。

対メディアに対しての、広告を打つ際に考えるマーケティングで考えられていた「ユーザー層」と言う考え方から、Webでは全てユーザー一人ひとりに対しての、ダイレクトな発言になっていきます。

サイトのデザインやプログラミングは外注も出来ますが、社内情報を発言して行くのも、お客様の声をダイレクトに聴くのも、社内での専任スタッフが必ず必要になってきます。

企業とWebの付き合い方を説明した本も沢山出版されていますが、担当する部署の人間が、先ずはWebという社会で実際に話を聴き、発言してみることでリテラシーが構築されるのではないでしょうか。

既存の広報やマーケティングの仕事と、Webリテラシーは大きく違います。
新しく出現した社会の中で、生活出来るスタッフを育てることも必要です。




Webって

先日“スラッシュドットジャパン”にネット上での医薬品販売は偏見が原因の1つ? と言う記事が載りました。


先日医薬品の通信販売を規制する省令が公布されたが、Internet Watchに、この規制が決定される舞台裏では

「ネットが危険なのは言うまでもない。そんな危険なところで医薬品を売らせてはいけない」

といったネットへの偏見・無理解があったのではという趣旨の記事が掲載されている。


この記事を読んで、Webをこんな風に感じる人がまだいるのか、と感心したと言うかビックリした。

物を作り販売することは、社会生活として企業や店舗と、コンシュマーとのコミュニケーションによって成り立っている。

Webもそうだ。フェイス・トウー・フェイスは無理だろうが、テキストとしてのコミュニケーションで成り立っている。

リアルにしてもWebにしても同じように怪しげな場所は沢山ある、やばそうな場所は近づかないのに限るのは、どちらの社会にとっても言えることだ。

ネットに対してよく調べもせずに、ただ知らない物は危ない物と偏見を持っていては、新しく出現したWebと言う社会の環境変化に対応できないばかりか、大きなビジネスチャンスさえ失う。

ネットが普及する前のコミュニケーションは、マスメディアを通しての一方通行のコミュニケーションで、プレスリリースを出してマスコミに取り上げられるのを待つか、お金を出して広告を打つしか方法がなかった。

つまり大きな資本が集中するところに、物やお金も集まる形式になっていた物が、Webと言うもう一つの社会がそれを引き下ろしてしまった。


今さら説明する必要もないだろうが、マスメディアを通さなくても、企業でも、個人でも、コンシュマーとコミュニケーションが取れるようになったこと。

ただし、お金を払えば第三者がヨロシクやってくれた頃と違い、お金は掛からない代わりに自分で飛び込んでやってみる必要が出来た。

Webと言うもう一つの社会でコミュニケーションを取ることで、リアルな現実社会でのブランディングが可能になったこと。

ただしWeb上のコミュニケーションは、テキストが基本なので文章表現方法の違いが、個人こじんの資質に左右されてしまう。

だからと言って尻込みして何もしないと、衰退が目に見えてきている現社会と同じように、じり貧になっていく可能性が高い。

これからはWebと言う、新しいコミュニケーション手段を利用した社会とのコミュニケーションも、従来の広報やマーケティングと同じようなウェイトを置く必要がある。

これは企業が、商店がサイトを持っているからだいじょうぶ、と言うことではない。

ステークホルダーときちんとコミュニケーションが取れているかどうか、と言うコミュニケーションの質が大切だ。




大人の皮をかぶったお子様か

最近のメディアが流すニュースは、確かに明るい話題は少なく暗いと感じている。
まぁ、腹に据えかねる嫌なことも多いから、なのかもしれないが、最近なんだか覚悟が足りない、情けない大人が増えているのが原因かも?と思った。

ねぇ、G7で日本の品位を落としてくれ、その後の美術館でもひんしゅくを買い、いまだに国会議員しているあの人とか。
でもあの人はあまり攻めると、お父さんのように自殺されると後味悪いから、追い詰めない方が良いのかな。

新しい米大統領と電話で首脳会談した時に、何を言いたいのかよく判らなかった、と言われちゃったあの人とか。

個人的にもあいつやこいつなど、50才を過ぎてもガキみたいな考え方している奴とか、大人として付き合えないと怒りを覚えると言うより、笑いたくなる。
・・・どっかで聞いた台詞?

そんなニュースが飛び交う中、出会ったのが、福沢諭吉の『痩我慢の説』。

これは元徳川の幕臣だった勝海舟と榎本武陽の、出処進退を厳しく指摘した文章。

「当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといへども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言うべき限りに非ず。」
「我日本国民に固有する痩我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を免れしめたると、万世の士気を傷つけたると、その功罪相償うべきや。」

これに対し、勝は。
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これ無く候。御差越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候。」

福沢諭吉は「短期的な観点からすれば勝海舟の選択は正しい。けれども、武士としての考え方(武士道・痩せ我慢という美意識)から見ると、戦争の勝ち負けではなく、日本という国家が将来無くなってしまうのではないのか。
日本人が根本に持っている『痩せ我慢』と言う美意識を放棄したことが、一時の兵禍を免れるために行われたとしても、日本人の根本的美意識を弛めてしまっては、元には戻らないだろう。確かに功もあるが罪もある、罪の方は日本という国家がこれからずっと背負うことになるけど、これをどう償うのさ。」

これに対し勝は「出処進退はその人が自己決定することである。その成否や理非を論じるのは他人の仕事である。私が『私のことはこう評価してください』と他人にお願いする筋のものではない。
私への批判の文章、どんどん世間に発表してくださって結構。
でも、戴いた草稿はこのままくださいね。」

これを読むと、明治維新を経験したこの二人は、かっこいい大人だ。
お子ちゃまじゃ困っちゃうけれど、大人としての突っ張り方をわきまえている、やせ我慢が大人としての美学なのかもしれない。

政治の世界はよく判りません、ひょっとしたら屋根に登ったは良いけれど、梯子を外され、降りれなくなって上で泣いているのかもしれません。

でも泣いて済むのは凡人だけ、人の上に立つような人たちはやはり「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。」この心意気だけは欲しいよな。
って、無い物ねだり?




不景気な時に不景気な話をしても・・・。

と言うか、そんな話題しか提供できない政府にも問題はあるのだろうが、日本を代表して向かった国際会議であの格好を放送され、見ている国民も後味の悪さを感じたのではないだろうか。

そんな姿を延々とテレビの報道番組で見せられた日には、不景気と萎んだ姿がよりショボーンと背を丸く、小さくさせるようだ。

こんな時はガハハと笑って過ごせる番組が嬉しい、個人的には一発芸のパフォーマンスで笑いを取るのではなく、昔のドリフターズの考えられた笑いが好きだ。

後は世界に対して誇れる日本を実感した時、人でも技術でも。

技術という点では基幹産業である自動車と、環境技術だろうか。

人としては辞任した中川昭一財務・金融担当相の報道で、陰に隠れてしまった形になるが、なんと言ってもエルサレム賞の授賞式での村上春樹のスピーチであろう。

昨日のニュースにもあったが、今日スピーチの全文が本人の署名付で公表されていた。

紛争のあったエルサレムに招かれて行き、その当事者の一方であるイスラエルのペレス首相の前でのこの発言は、イスラエルとパレスチナの人たちに、どう感じられたのだろう。
今さらもう、どっちがどれだけ悪いかなんて意見は不毛な話だ。
とりあえず戦争は止めにして、話し合いに入るきっかけにはならないものか。

エルサレム賞を受賞し、授賞式に参加することで、紛争当事者の一方にくみされるのでは、と言う懸念から欧米の作家達は受賞を辞退しているらしいが、授賞式に登場し、言いたいことを言ってくれたのは、景気の低迷で閉塞感を感じる日本国民には、良い風穴を開けてくれたのではないか?。

報道として酩酊した顔の大臣を映すのも必要かもしれないが、メディアがやらない物だから、Web上では色々な人が翻訳してアップしてある。
その中でもブログをwikiのように使い、意見を出し合って作られた「はてな」のブログがある、発言した本人が公表していない今の段階では、一番近いのかな?。

読んでみると、小説と比べたら全然短いほんの一言なんだけれど、なんだかちょっと感動させてくれた。

日本人としてこの様な発言をしてくれ、少し誇りに思った。

ニュースとしてどちらがプライオリティーが高いのかの判断一つにしても、既存メディアとWebとの温度差を感じる。

こんな言葉の力だけれど、少しだけ世界を変えてくれるんじゃないかと期待させる、そんな発言をしたのが日本人だなんて、まんざら日本も捨てた物じゃないだろう、と、世界中に対して誇れることではないのか。

今は寒い寒いと身をかがめながら歩くのではなく、国民が自信と誇りを持って、堂々と歩いて行く姿こそ必要なのではないだろうか。




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