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何が求められてゆくでしょうか

循環型社会で売るべき商品は

日本のお家芸であった製造業が在庫を抱え、物も売れずに四苦八苦している。
ついこの間までは大量生産、大量消費は美徳だった。
特に家電製品は壊れてしまっても、裏蓋さえない物が多くあり、壊れてしまったら次の新しい商品を買ってくれと、修理を前提に商品を作っていないようだ。
でも壊れてしまったからと、新しい製品を選ぶしかないのはブランドにとって、愛着は湧くのであろうか。
クルマでもバイクでもそうであるが、消耗品を取り替え、壊れたところを修理、または交換し、だんだんと自分仕様になっていった時に、そのメーカーやブランドに愛着が湧くのである。

我が家には子どもが三人おり、一番下は今年から中学生になる男の子である。
ご多分に漏れず携帯ゲーム機のファンであり、休日ともなればそれこそ朝から晩まで、いい加減にしなさいと言われてもゲームばかりしている。
使っているのは任天堂のDS、上のお兄ちゃんは同じDSのLightを使っているが、子どもの玩具である、大事に使えと言って聞く訳はない。
自転車のカゴに放り込んだまま、走り回り転んで放り出されたり、置いてあるのに気がつかず座ってしまったりと、道具としても限りなく乱雑に扱われている。

だから、メーカーに修理を依頼するのも、一度や二度では済んでいない、DSの前にはGBもそうであった。
任天堂がスゴイと感じるのは、メーカーとしてその製品作りが徹底している点なのかもしれない。
売っている製品は子どもが使うことを前提に設計・製造されている。
つまり遊んで壊すことを念頭に、修理しやすい製品を作っている。
けして一時期に大量に生産できるからと、修理のきかないノックダウンでは作らない、お客様に製品が出来るまで待っていただいている。
その替わり修理を依頼すれば完璧だ、ヒンジが折れ、液晶に傷が付き割れてしまっても修理してくれ、しかも子どもが貯めたお小遣いで支払えるよう、修理の上限が決まっているようだ。
今まで何度か修理に出してはいるが、¥5,000を越える金額を請求されることは、いまだに無い。

割れた外装を交換するなら、確か¥300ぐらいしかかからなかったし、壊れた機械に付いていたシールを丁寧に新しい外装に移植してくれていた。
こうゆう事をしてくれて愛着が湧かないわけがない、子どもよりも帰ってきた本体と金額を見て、感激するのは大人の方である。

輸出に依存していた製造業が、軒並み赤字に転落したニュースはまだ記憶に新しいが、円高になり今年3月期の決算を下方修正したにも係わらず、任天堂の営業利益は過去最高水準になるようである。
個人が使う道具として愛され、ブランドとして愛され、メーカーとして信頼されたからこその結果ではないのか。

クルマでも、レンタカーなどには愛着は湧かない、自分の物として長い間生活を共にするからこそ愛着が湧くのである。

大量生産・大量消費が美徳だった時代は過ぎ、物を大事に使い、捨てずにリサイクルを続ける循環型社会で求められる製品作りは、任天堂のように製品に愛着が湧き、ブランドとして愛されるメーカーではないだろうか。




Webって

先日“スラッシュドットジャパン”にネット上での医薬品販売は偏見が原因の1つ? と言う記事が載りました。


先日医薬品の通信販売を規制する省令が公布されたが、Internet Watchに、この規制が決定される舞台裏では

「ネットが危険なのは言うまでもない。そんな危険なところで医薬品を売らせてはいけない」

といったネットへの偏見・無理解があったのではという趣旨の記事が掲載されている。


この記事を読んで、Webをこんな風に感じる人がまだいるのか、と感心したと言うかビックリした。

物を作り販売することは、社会生活として企業や店舗と、コンシュマーとのコミュニケーションによって成り立っている。

Webもそうだ。フェイス・トウー・フェイスは無理だろうが、テキストとしてのコミュニケーションで成り立っている。

リアルにしてもWebにしても同じように怪しげな場所は沢山ある、やばそうな場所は近づかないのに限るのは、どちらの社会にとっても言えることだ。

ネットに対してよく調べもせずに、ただ知らない物は危ない物と偏見を持っていては、新しく出現したWebと言う社会の環境変化に対応できないばかりか、大きなビジネスチャンスさえ失う。

ネットが普及する前のコミュニケーションは、マスメディアを通しての一方通行のコミュニケーションで、プレスリリースを出してマスコミに取り上げられるのを待つか、お金を出して広告を打つしか方法がなかった。

つまり大きな資本が集中するところに、物やお金も集まる形式になっていた物が、Webと言うもう一つの社会がそれを引き下ろしてしまった。


今さら説明する必要もないだろうが、マスメディアを通さなくても、企業でも、個人でも、コンシュマーとコミュニケーションが取れるようになったこと。

ただし、お金を払えば第三者がヨロシクやってくれた頃と違い、お金は掛からない代わりに自分で飛び込んでやってみる必要が出来た。

Webと言うもう一つの社会でコミュニケーションを取ることで、リアルな現実社会でのブランディングが可能になったこと。

ただしWeb上のコミュニケーションは、テキストが基本なので文章表現方法の違いが、個人こじんの資質に左右されてしまう。

だからと言って尻込みして何もしないと、衰退が目に見えてきている現社会と同じように、じり貧になっていく可能性が高い。

これからはWebと言う、新しいコミュニケーション手段を利用した社会とのコミュニケーションも、従来の広報やマーケティングと同じようなウェイトを置く必要がある。

これは企業が、商店がサイトを持っているからだいじょうぶ、と言うことではない。

ステークホルダーときちんとコミュニケーションが取れているかどうか、と言うコミュニケーションの質が大切だ。




Webと言う名の社会

すでにがっぷり四つに組んでWebを生活の一部としている方には、何を今さらでしょうが、おさらいとして確認するところから入ってみたいと思います。

生活の中にインターネットが入ってきたことで、大きく生活も変わってきました。

今まで人の記憶を脳以外に残しておくことは、文字・音楽、写真や映像に置き換えて保存するしかなかった物を、データーとしてコンピューターに保存できるようになり、ネットで繋ぐことで情報という名の記憶を、世界の人と共有することが可能になりました。

その情報がどこにあるのか調べ上げて「ここにあるよ」と教えてくれるのが、Googleを始めとする検索サイトでしょう。

今までそんな情報が有ることすら知らなかった物ですが、文字や写真などのデーターとしてインターネット上に公開してあれば、欲しいと思う人が検索することでコミュニケーションする事も可能になりました。

今までは企業が社会とコミュニケーションするためには、新聞や雑誌、テレビと言ったメディアを通してでしか出来なかったことから、PRという仕事は、プレスリリースをメディアに取り上げてもらえるように力を注いでいました。

でも現在では企業側からの情報は、メディアを通さなくても、ダイレクトに社会に伝えることが可能になっていますし、反対に聴く事も出来るようになっています。

流通にしてもそうです、今まではデパートやスーパーと言ったお店を通して購入していた物が、Webページを窓口に様々な物が購入出来るようになりました。

しかもスーパーなどに並んでいるナショナルブランドの商品だけではなく、旅行に行って口にし、美味しいと感激したような物まで、ダイレクトに購入することも可能です。

数十年前に買うことの出来なかった物さえ、Yahoo!のオークションを覗いてみると見つかることも少なくありません。


先日のコラムにも書きましたが、生活している社会にWebという社会が増えたのです。

今までの実社会中心から、Webに乗り換えなければと言っているのではありません、実社会とWebと両方の社会を考えていかなければいけないのです。

これからの企業活動は、この新しく増えたWebという社会と上手く付き合っていかなければ、企業として、組織として活動が出来ない時が来ます。

対メディアに対しての、広告を打つ際に考えるマーケティングで考えられていた「ユーザー層」と言う考え方から、Webでは全てユーザー一人ひとりに対しての、ダイレクトな発言になっていきます。

サイトのデザインやプログラミングは外注も出来ますが、社内情報を発言して行くのも、お客様の声をダイレクトに聴くのも、社内での専任スタッフが必ず必要になってきます。

企業とWebの付き合い方を説明した本も沢山出版されていますが、担当する部署の人間が、先ずはWebという社会で実際に話を聴き、発言してみることでリテラシーが構築されるのではないでしょうか。

既存の広報やマーケティングの仕事と、Webリテラシーは大きく違います。
新しく出現した社会の中で、生活出来るスタッフを育てることも必要です。




アメリカ国民の意識に変化が見える

大統領がオバマ氏に替わったこともありますが、今回気がついたというか、変わってきたと感じたのが漫画・コミック、向こうで言うカトゥーンです。

皆さんご存じのように、アメコミと言われるヒーロー漫画では、様々なヒーローが登場し、悪を倒し平和な世界を築くというストーリーが、王道として表現されてきました。

スーパーマンを始め、スパイダーマン、バットマンなどの多くが映画化され、世界中の多くの人に愛されています。

漫画という世界では、アメコミという確立されたカテゴリー以外にも、日本の漫画が最近は良く読まれ、評判も高くなっており、2003年にはアメリカでの漫画販売数が、アメコミの販売数を抜き、その差も毎年拡大しています。

アメコミと日本の漫画を比べ、一番大きく差を感じるのは、突出した勧善懲悪のヒーローの存在でしょうか、日本の漫画の中にも主人公はいますが、主人公を含めた社会環境と、周りの人との関係はもう少し描き込んであるように感じます。

なぜこのような同じ漫画でも表現に差が出たのでしょうか、非常に興味がありますが、私は宗教観の差からではないかと考えます。

日本はいわゆる八百万の神様がいると言われ、宗教的には仏教の教えを受け入れながら、神社にも詣でると言った、宗教の中でも多様性を認める多神教の社会です。

欧米はキリスト教を中心とした一神教、一人の神様が良い行いをすれば、死んだ後も天国へ行けると教え、神の名の下に社会活動を行い暮らす世界、キリストは世界一のヒーローなのかもしれません。

一神教の教えを何代も続けていく内に、悪を滅ぼし平和な世界を作るのは、一人のヒーローが当たり前と感じたのでしょう。

それに比べ日本では、森の中にも、大きな木のほこらにも、暗い押し入れの中にも神様がいるし、道を歩けば道祖神や、お稲荷さんがあちらこちらに沢山います。

妖怪という形で、未知のもの・物の怪など、分からない何かとも一緒に暮らしていたりします。

現在アメリカの映画産業では、原作を日本の漫画にもとめ、「マッハGo Go Go!」や「ドラゴンボール」などが公開されたり、制作の準備に入った漫画もあります。

強い一人のヒーローから、主人公を取り巻く人や環境とストーリーを重視する、多様性の中の正義を表現する作品が増えてきていると感じます。

今までは「アメリカンドリーム」という言葉が示すように、他の人にない何か新しい物を考え出せば、大金を手に入れる事が出来る市場原理主義でした。

しかし、アメリカという国がオバマ大統領に替わり、年間所得一世帯で25万ドル以上の場合、税率はこれまでの33%が36%に、年間所得37万ドル以上の場合は35%から39.6%に、それぞれ引き上げられる予算案が提出されました。

国民の求めるエンターテインメントの変化と、所得の再分配を求める声の大元は、同じ場所にあるのではないでしょうか。

HBSを卒業し、MBAを取得しているから。大企業のCEOとしてマネージメントしているから。

一部の人間が一人で年間数億ドルの賃金を貰っている一方、労働者の賃金は数万ドルと、格差があまりにもかけ離れすぎた事が、一つの原因かもしれません。

経済学者も「社会主義科するアメリカ経済」など、成長を危惧する発言も目立ちます。

しかし地球温暖化ガスの上昇は、GDPの動きに合わせるように上昇している事を考えると、化石燃料の代替エネルギーが発明されるまでは、成長をある一定の所で押さえる必要があるのかもしれません。

社会主義はソ連の崩壊と共に国家のシステムとして不適切だったと認識され、中国も経済的に資本主義体制を大幅に進めています。

でも現在のアメリカの様子を見ると、今までの西側諸国が進めてきた資本主義体制が、曲がり角に来ていると感じられます。

一人だけの大金持ちのヒーローより、多くの国民が豊かに、持続可能で安心して暮らせる社会を求める、新しい資本主義社会を模索しているのではないでしょうか。




人は自分に無いモノを求める。

マスメディアは終わっただとか、新聞やテレビに明日はないとか言われて久しいですが、現実的な所マスメディアを利用した広告の効果は、いまだに主流に居続けています。

主流として流れの中心には居ますが、その周りに流れるWebと言う新しい流れも、無視出来ない勢いになってきているのも確かです。

アメリカ発の金融危機が引き金となって、商品が売れない時代と言われています。

売れる商品を開発するのは当然の行為としても、この先現在の延長線上の商品開発だけで良いのだろうか、社会環境がこの先も変化し続けるとしたら、開発にも新しい切り口が必要なのではないのか。

新しい商品開発の切り口とは、新しいニーズというか鉱脈を見つける事なのか。

金がなければ金が欲しい、自由がなければ自由が欲しい、愛がなければ愛が欲しい、欲しいと感じさせるためには無いモノを探せ。生活をするのに便利な都会には田舎の不便はない。清潔・綺麗で人工的な場所には虫や動物の住む自然豊かな場所はない。

何とも人はワガママなものである、しかし商売の基本は「そのワガママを満たす事」で成り立っているのではないだろうか。

今まで地方に出来ていた大型商業施設などは、地方都市ではない「東京」の洗練と品揃えを持ってくる事でお客様に夢を与え、時間を消費させる商売をした。

自分の容姿はどうだろう、絶世の美男・美女だろうか。少し不安を煽る事で少しでも美しく見える化粧品や、スキンケア商品を購入してくれるのではないか。

家電製品はどうだろうか、その製品を使えば便利な暮らしが待っているのだろうか。効率よく家事をこなす事で、時間を有効に使う事が出来るようになるのだろうか。


・・・そんな自分に無いモノを求め続け、揃え続けた結果、家にはさまざまな商品があふれかえっている。

経済成長はズーッと右肩上がりで成長を続ける事を余儀なくされる、ニーズを探しに隙間を覗く、メジャーではなくニッチまでもがマーケティングに組み込まれていく。

今の社会はモノもサービスも満たされているのではないのだろうか、だから“欲しい”と考えられるプラス思考の商品を市場に投入する、でも人は自分に無いモノを求めている。

モノやサービスがプラスされて便利な生活は既に持っている、反対に何もない不便な生活はどうだろうか、本当に不便な生活だからこそ、今までに無い豊かな生活を発見出来るのではないだろうか。

全てを機械がこなすのではなく、人の作業を残す事で使う人間の満足度が大きくなりはしないか。

全てのサービスを提供するのではなく、顧客が作業する事で満足度は上がらないのか。

新しい商品やサービスは、何でもかんでも出来るといったモノから、ある部分をユーザーの裁量権で手作業する部分を残す事で満足度が上がる、バイクでも車でもクラッシックと言われるモノを愛好する人たちは昔からそう感じている、便利な事がイコール楽しい事ではない。

今までのように完全ではないが、使って楽しい製品、心に訴えかけるエモーショナルをコンセプトの前面に打ち出した製品が出てきても良いのではないかと感じるが、いかがだろうか。




日本の未来は明るいのか暗いのか

私みたいな素人が言うのも何ですが、新聞報道などによる株価日経平均1万円突破というニュースを聞いて、景気は回復傾向にあり日本の経済も再生か? などと報道されても簡単には信用出来ませんね。

まず第一にウチみたいな弱小デザイン事務所で働く身としては、仕事の依頼が増えた、と言うような実感がありません。まぁ営業努力してるのか、と言われてしまえば足りないかもしれない。と答えるしかないのかもしれないが、「今までだったらクライアントの景気が悪いから、制作側に仕事が流れてこない」・・・みたいな景気の良し悪しの流れが見えていたのだが、クライアントも出口を見つけられずにもがいている最中で、新規の仕事などは考えられないからその内ね。
と言う風に感じられる。

ま、そうではない若い人たちも大勢いるだろうが、ある程度年を重ねたデザイナーは冬の時代で廃業する仲間も沢山いたりする。

現実の社会として情報の流通がこれほど変化し、社会もそれに倣うように変化しているのに、社会の変化は遅々として進まないばかりか、元に戻ろうとする勢力まで現れる始末だ。

これからの社会保障に対する個人の負担額の大きさを考えると、これから成人を迎える子供たちに、申し訳ないと頭を下げたくなってしまう。しかも正規雇用は難しくなるばかりで、子供たちに未来を夢見る事は可能なのだろうか、と溜め息の一つも付きたくなる。しかも非正規雇用は賃金も抑えられるので、ますます税収が減り、プライマリーバランスが悪くなりそうな気配。

しかしその反面企業の中にはガツガツと働きもしないのに高い給料を頂いている方達もいる、当然年金は賃金額に合わせてスライドするから、沢山給料を頂いていた方達は、年金の支給額も高い。

少子高齢化社会で働き盛りの若者は少なくなるが、60才で迎える定年後は仕事の雇用先すらないのが現状だ。あまり体も動かなくなってしまう80才頃まで、年金を頼りにただ遊んで暮らしていくのか?。いくら若い頃から培ったスキルやナレッジがあっても、ビルの掃除人や、交通整理くらいしか仕事がないのなら、年金もらって生活するしか選択肢は残されていないのかもしれない。

日本の避けて通る事が出来ない現実を前にしてみると、この先定年は80才までと、40才(根拠はない)以上の昇級停止と、年金の上限額を決めてしまう事と、現在居るノンワーキングリッチの給与の見直しが必要なのではないのだろうか。

もちろん消費税額も上げるのだろうけれど、既得権を持った年寄り達に下克上を突きつけるのが現実的な気がする、政党としては自由民主党はなんだかこの先の改革路線は望めそうにないし、かといって組合を支持母体とする民主党が政権を取っても、仕事しなくても高給を保証してくれる環境を手に入れたのを簡単に手放す組合(特に上層部?)は無いだろうから、変えて行くのは無理なんだろうなぁーと。

変化した社会に合わせるように、システムも変化させようと考える若手政治家?達が、第三の政党かなにかを立ち上げてリーダーになるしかこの国は変わっていかないのかな、将来から現在を振り返り「長い暗黒の○十年」だったと呼ばれるのだろうか。




流行廃りは、人の気持ちの変化から

と言うか、自分の気持ちの変化と言ってもいいのかな、そこそこちゃんとした物が手軽に手に入れることが出来てくると、あまりこだわりが無くなってくるように感じる。例えばコーヒー、数年前までは朝事務所で最初にする儀式は、一杯のおいしいコーヒーを入れることから始まったけれど、最近は挽いた豆をドリップで煎れることも少なくなった。

それまでおいしいコーヒーを飲むためにはコーヒー専門店に行って、日替わりの豆で煎れるストレートサービスを飲むか、煎った豆を買ってきてドリップして飲むしかなかったが、最近は駅近くのスタンドにあるドトールや、スタバ。マクドナルドなどコーヒー店意外でもおいしいコーヒーを手軽に飲めるようになってきた。

そんなワンコインで手軽においしいコーヒーを飲めるようになったことで、コーヒーに持っていたこだわりはずいぶんと小さな物になった。マーケットとしてもこだわって購入してくれる人はまだまだいるのだろうが、デパ地下などでコーヒー豆の挽き売り専門店などが少なくなったことを見ると、ずいぶんと縮小してしまったように感じる。

そば屋なんてのもそうだろうな、鰹節などで出汁を取ってみりんと返しを入れてなど、ずいぶんと手間暇が掛かっためんつゆも、今じゃスーパーの醤油売り場の横に多くのスペースを使い、様々なブランドの製品が数多く並ぶ。それか和のファーストフードとしての立ち食いそば屋か。

昔の刑事物のドラマでよく見かけた、容疑者と刑事の取調室でのやりとりの中でも、容疑者に食べさせるのは近所のそば屋から出前を取ったカツ丼だったが、これからはどうなるのだ? 刑事がコンビニで買ってきたおにぎりとか、弁当やパンになるのか?。まさか給食センターが配達する弁当じゃないよね。

これらすべて、長い間訓練し作ることに慣れた職人にしか許されなかった職域だった。その職人しかできなかった物が、コモディティー化のおかげで手軽に手に入れることが出来るようになった事で、我々庶民もおいしい物を手軽に、安く手に入れることが出来るようになった訳だけれど、多くの職を失った人もいることも事実だ。

だからと言って今まで入手するのに大変な労力が必要だった物が、簡単に入手できるようになった事に反対している訳ではない。昔から人に求められる仕事は、社会の変化と共に輪廻を繰り返すように変わってきた。これからもその流れは続くだろうし、実際にデザインの世界ではすでに始まっているように感じる。

また、通信環境のインフラ整備がこれだけ進んでくると、物を売ることで利益を得るのではなく、そのサービスを提供することで利益を得る商売が多く出てくると思われる。たとえ士業として法律の下で成り立っている弁護士や、会計士もその例に違わないのではないだろうか。

今はソフトを作り販売する会社も、定期的にバージョンアップが必要なエクセルやワードと言ったソフトを販売するよりも、Googleの提供するドキュメントや、スプレッドシートのように、クラウドコンピューティングでサービスを提供してもらう方が、利用する側としては利便性が高い人もいるだろう。

会計事務所が月々所定の金額で顧問契約し、決算時にも別に決算料を徴収される顧問会計士という制度よりも、先生に定期的に訪問してもらわなくても、光熱費に近い安価な金額で Web上の帳簿を監査・アドバイスし、後は自動的に決算書類ができあがると言うような、簿記に近い物と経営コンサルティングに分化すれば、法人化していない商店など自営業者もサービスに乗るのではないか?。

まぁ、セキュリティーや監督官庁などいろいろな問題があるのは承知の上で、会計というサービスを一つの例として、社会から求められているであろうそんなサービスを新たに起こせば、新しい職域が生まれるのではないでしょうか。




ほとんどの人が疑わない常識を疑え!

タイトルの「ほとんどの人が疑わない常識を疑え!」とは、最近の私のデスクの前に貼ってある一言なのですが、広告の制作で企画をしていた者なら必ず通ってきた「どう表現するか」を考える時、その制作物のコンセプトからメインビジュアル、表現までをどのようにしたら広告を見てくれた人にフックとなって商品購入まで至ってくれるのか。

ほとんどの人=社会常識なのでしょうが、その「ほとんどの人」が広告のビジュアルとコンセプトが想像通りのものよりも、期待を少し裏切るサプライズがある方が見る人の心に残ることから、正面ばかりからではなく、色々な角度の切り口で物事を見て判断する訓練をしてきました。

でも「ほとんどの人」の期待される常識から、一歩先まで行ってしまうと行き過ぎてしまい、自分の求めているものと異質な物だと認識になってしまい、フックにもならないので半歩先位をよく考えました。

人ってだいたいが育ってきた、生活してきた常識に則って自分のデフォルトを、自分はここまでと線引きをしますが、その常識を少しだけ外すことで新しいアイディアや戦略を思いついたりします。そう、会社の常識って見方によっては、社会の非常識だったりしますから、自分の考えている常識の枠を少し外れれば、いろいろなアイディアが湧いてきます。

世の中には様々なクラスの人たちがいます、毎日の生活にも苦しむ経済的に恵まれない人もいれば、セレブと言われて喜んでいるような人たちも、自分がその人になったように考え、求めていることをペルソナとして形にすることがクリエイティブなのでしょう。

これはもう広告に対するアイデア出しという範疇ではなく、企業の販売・営業戦略においても同じような事が考えられますね。コンシュマーはいつでも無い物ねだりで贅沢なのだ。大きく外れるマイノリティーなポイントではなく、少しだけ本流から外れた所に差別化のポイントを置く、その方が理解されやすく、訴求しやすいのでしょう。

世の中でHITした商品には、その商品が登場した時期の社会常識からすると、ハズレてしまっているものが数多くある。古くはSONYのウォークマンもそうだし、同じ携帯音楽プレーヤーのi-Podもそうですね。たいてい非常識な若者のライフスタイルから、ニーズが喚起され、そのペルソナに従った商品がHITするのでしょう。

今までの非常識な若者と言われた人たちは、繁華街に集まり、群れる所から若者文化と言われるモノを産んできました。Webと言うインフラが整った現在では、一定の場所に集まらなくても群れることが出来るようになりましたので、こちらはこちらで一つの文化を作り出しています。

昔は雑誌などからサブカルチャーとして、若者文化が出てきましたが、印刷媒体からWebへ、マスからパーソナルへと移り変わってきました。そのように大きな社会文化と言うものから、細分化された個々の文化になると、物に対しての執着は小さくなるのでしょう、物からサービスへの移行ですね。

最近Web上では綺麗なお姉さん達が、フリップを持って時間を教えてくれる「美人時計」が人気ですが、なんと「AV時計」まで出来ています。うーん、やはり私たちの世代との社会常識が変わってきている、今まではどちらかというとアンダーグランド的なイメージが有りましたが、この「AV時計」を見てみるとアングラなイメージは感じさせず、アイドルの一つのカテゴリーになった感じもします。

風俗とアイドルの隙間を埋める、サービス産業に成長するかもしれませんね。いいトシこいてもカワイイ女の子は大好きですから、傍観者として眺めさせていただきます。

さて、今日はもう12月の25日、クリスマスです。来週はもう元旦、2010年のスタートです、2009年は公私共にあまり良いことは無かったように感じますが、2010年は良い年になりますように。




日本全国経済絶不調?

昨年12月に新商売始めました。と、宣言し「新商売なのだ」とエントリーも書きましたが、今年になって仕事関係を含め、個人的な趣味などで知り合った方たちへ、ご挨拶としてご案内を郵送させて頂きましたが、何通か宛名不明で戻ってきてしまいました。

事務所を移転されたのか、その事業所から退職してしまったのかは定かではありませんが、中には不況業種と考えられる出版社の方もいらっしゃいます。

先日の朝日新聞の朝刊にも、日本の自動詞や雑誌をリードしてきた二玄社のNAVI誌が休刊になるとニュースになっていましたが、兄弟誌のMOTO NAVIと言うバイク雑誌も同じく休刊になるようです。

確かにね、2009年度のオートバイ販売台数を見ると、前年の半分しか売れなかった。なんてハナシも聞きますから、趣味が多様化したからバイクやクルマが売れなくなったと言うのも確かでしょう。でもやはり一番大きな原因は経済がうまく行っていないことでしょうね、団塊ジュニアの35歳の年収のピークが、10年前のピークと比べ200万円も減った、なんて聞きますから。年収のピークがこれ程下がり、将来に対しての明るい展望が見えなければローンを組んでまで高額商品を買う人はいないでしょう。

子供を扶養する心配の無い独身者でさえ、クルマやバイクで脳天気に遊んでいられなくなっているってことです。だからと言ってその趣味で楽しんでいる人が皆無になったかといえば、そんなことはありません。新しいユーザー数の裾野は広く増加しなくても、メーカー別や旧車などのより深い領域で楽しんでいる人たちはたくさん居ます。

バイクやクルマの雑誌が売れなくなり、休刊に追い込まれる話はよく聞きます。流通業、特にデパートなども商品が売れず、やはり厳しいと言う話は嫌というほど聞きます。でも雑誌にしても、衣料品などでも「読みたい」とか「この服が欲しい」と言うのが見あたらないのも確かです。

売れる商品を開発する時に、今までは一番大きなマーケットだった「M1-F1」と言う若い層をターゲットにしてきたように感じますが、インターネットと言うメディアが整備され、今まで売れていなかった商品が長く細く売れる「ロングテール現象」が見られたり、自分の気に入ったものしか見ないと言った「プル現象」などからすると、マスプロととして大きなマーケットに向き合うのではなく、ユーザーに合わせてきめ細かくセグメントし、少量だけ作って売ると言った発想の転換が必要なのかもしれません。

企画や開発、デザインする側も、若い世代が全てのものを作るのではなく、それぞれのユーザーのツボを知っている年齢の人に制作させるなど、柔軟なクリエイティブ環境を作るのも必要なものと考えます。

趣味を扱う雑誌にしても、そんな新しい情報が日々あるわけではないでしょうから、月刊誌と言うサイクルよりは季刊誌などにして、踏み込んだ内容の濃さを売りにするのも古くからのユーザーには喜ばれるかもしれません、ユーザーに求められるものであれば多少高くても買ってくれるはずです。

沢山の人が求めるものを大量に届けるよりも、一部の人達が求めるものを求めているだけ届けると言う考え方が、これからより必要となるでしょう。




デフレのおかげと酒呑みの自己弁護。

昨年のリーマン・ショック以降、物が売れずに値段を下げない事には物が売れなくなっていると、ひとり勝ちのユニクロを悪者に仕立て上げる記事も見られますが、本来技術革新などで生産効率が上がれば、物の値段は下がることは今までにも沢山有りましたので、私なんかはどちらかというと歓迎しているんですけれど。

世の中には「その地域で好まれているもの」が有り、食品などでも日本では豆腐や納豆と言った大豆加工食品が日常的に食べられていますけど、沢山の人が買ってくれるから単価は安く、手に入れやすい商品ですが、食習慣のない例えばアメリカあたりで食べようとすると、どこでも手軽に手に入る食品とは言い難いのでしょう。

同じようなことを日本で暮らす私が考えると「本場中国の〇〇は日本で買うと〇〇円だが、向こうで買うとたった〇円で買える」と言ったことになるのでしょうが、なぜか普及品でも日本で買うと高くなるものって沢山あるように感じられます。

例えばお酒、ワインなんかは一時から比べればだいぶ安くなりましたが、海外で暮らす日本人のブログなんか見てみると、水みたいな金額で買えるような記事もしばしば見受けられます。

喫煙者が減ってきたことで、次なるターゲットはアルコールとばかり、WHOが「アルコールの有害な使用を減らす世界戦略」を発表しましたが、私は料理を作りながらちびちび飲んだり、仕事から夜中に帰ってから寝酒をいただくのが好きなので、アルコールは何でも好きなのですが、今まで水みたいな金額で買えるようなお酒を飲んで満足することなど有りませんでした。



安いお酒

でも最近は第三のビールと言われるものは、清涼飲料水と同じか、スーパーによってはそれよりも安い金額で売られていたりします。ワインは一時コストコで売っていた5リットル入って2,500円位の、バッグインボックスタイプのワインを飲んでいましたが、最近近所の西友で驚く値段でうっているワインを発見。となりの蒸留酒の棚には、スコッチウィスキーも驚く値段で売っているでは有りませんか。

今まで何度か「安物買いの銭失い」的に安い酒を買って後悔したことは何度も有りますが、失敗したと後悔しても、その一品を自己責任と言いながら腹に収めてしまえば済んでしまうこと。とはいえ数年前に世界最大のスーパーマーケット、アメリカのウォールマートの子会社になったので、世界中の仕入れ先から生産地に近いところで飲まれているお酒を輸入し、売っていたらひょっとして?と期待を持って買ったのは確かなところ。



輸入国など

ワインは不味くても料理に使うなど、逃げ道はあるのですが、ウィスキーはあまり変なもので割ると美味しくないので手をだすのに勇気がいります、国産ウィスキーで近い値段のものも幾つか飲んだことは有りますが、これしか無ければ買うけど・・・。と言う程度のものでしたから。

飲んでみた結果は、もうバンザーイ!!。です。



レシートです

ワインはコンビニで売っている1,000円前後のチリワインと同等程度、ウィスキーも同じようにだいたい1,200円程度の商品と同じ程度でしょうか、ワイン一本397円、スコッチウィスキー一本790円。クラブソーダは変な味付けのない炭酸水で40円。摘みのピーナッツもボトルで397円。ここにも有りました価格破壊。ウォッカやジンも安くならないかな?。

他にもkiriのクリームチーズも250円台だし、ウォールマートのPBのものは230円台で売っていますから、休日は駐車場がクルマで溢れ返るのもわかる気がします。24時間営業だし、始まりましたコンビニ離れが。

安い酒でも少し気取ったグラスに注げばそれなりに美味しい雰囲気は・・・、最初の一杯はストレートで、でも製氷皿のブロック氷は色気有りませんね。



気取ったグラスに


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