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クリエイティブって

制作する上で一番大切なもの

と聞かれたら、まず頭に浮かぶのはクライアントとの信頼関係。
PCにソフトさえインストールしてあれば、トレーニングを積んでいない人でも、何かしらデザインしたモノは作ることが出来る、今という時代はそんなやる気さえあれば出来てしまう、そんな時代です。

誰もが出来てしまうからこそ、守らなければいけないのは、そのプロジェクトのディレクターは誰なのか。

デザイナーから上がってきたものを確認し、進める時に多くの人が確認し決済するのは、余り賢い方法とは言えません。

なぜならば「船頭多くして、船、山に登る」です。

企業や製品のブランディングを良く理解した者が、一人で決済した方がハッキリとしたメッセージを内包したものを作り上げることが出来ます。

良く見聞きするのが、担当者とその上司、その部署の責任者が代わり番に見、主観でもってここの色はもっと明るく、この写真はもっと大きく、・・・などなど、広告の機能として必要と考えられる事を、コンセプトとして上げ、それに向かって作り上げても、多くの人が機能を理解しないまま意見を出し合うことで、紙面からメッセージ性は消え、ただの普遍的な広告になってしまいます。

良いものを作り上げるために必要なものは、クリエイターにオリエンする際に、何を目的としたツールを作るのかと言った明確な指針、企業理念から導き出される、表現するにあたってのトーン&マナー、クライアント側にはこの二つが必要条件でしょう。

反対にクリエイティブ側に必要とされるのは、センスと向上心、この二つではないでしょうか。

クライアントとクリエイティブにこの要素があって、初めてお互いが認めあえる作品が出来、満足出来る効果があってお互いの信頼関係が出来上がります。

だからと言っては何ですが、私が初めてさせていただくお仕事は、いきなりpdfファイルを添付しては送りません、必ずお会いした上でキチンと意図を説明し、まずは信頼関係を築く事からはじめていきます。



 

恋してる?

私など恋愛なんて言葉を聞くと、遠い昔のように感じますが、今回のエントリーは男女の事ばかりではなく、広告やイベントなどの企画を考える上で、一番大切であろう「誰に何をどう伝えるか」をプランする基本は、恋愛とよく似たポイントだろうと感じた事がスタートです。

試しに置き換えて考えてみると非常に分かりやすかったので、文章として整理してみました。


彼氏や彼女を手に入れるための手練手管、と言ってしまうとあまりスマートではありませんが、人の行動から見ての“恋をする”とはどんな状態なのでしょうか。

生物学的見地からすると方向が変わってしまいますので置いて置いて、行動学的見地からと限定すると「お互いを良く知りたい、理解したい」が“恋”だと言われます。

相手の事を良く理解し、共に生きていけるように可能な部分は自己を変えて行き、さらに相手を深く理解する、パートナーの長所・短所・社会的な位置づけなど、相手を知れば知るほどターゲットユーザー毎にさまざまな仕掛けも作る事が可能です。

企画を考えるプランナーの仕事の第一歩は、クライアントに、売るべき商品に対して恋をする事から始まります。と言った方が「マーケティングから導き出されたロジックで、プランを提案しました」と説明するよりもなんだか堅苦しさが消える気がします。

通常代理店やクライアントからのオリエンの時には、プレスリリースに毛の生えた程度のオリエンシートに、商品の写真を添付される程度で、その背景にある企業理念や、エンジニアが作り上げる上で拘ったものなどは、伝わってこない場合がほとんどではないでしょうか。

恋愛などで付き合いも長く深くなっていくと、相手はどこで生まれ、どんな学校に通い、どんな本や音楽、俳優やミュージシャンが好きなのか、本人を形成する外堀がドンドン埋まって行き、目に見える姿を始め、考え方などから本人という姿が形になっていきます。

相手をよく知る事で初めて正確な姿をイメージ出来、アピールするための戦略が組めるのではないでしょうか。

良く理解しないでプランニングに走ると、分からない部分は“そうあって欲しい”と自分の主観で補足する事になり、意図するプランからずれてしまう可能性もあります。

正確な情報を沢山集め、相手を深く理解し、自分の友人や親に紹介した時に気に入ってもらえる紹介の方法が、広告の、広報のプランニングだと感じます。




Graphic Designerの未来は?:1

小さい頃から絵を描くのが好きだった。学生の頃美術の評価が高かった。カタカナ職業でかっこよく見えた。クリエイティブな仕事にあこがれを持っていた。・・・などなどGraphic Designerを目差した理由は沢山あるでしょう。

私がデザイナーを目差していた頃、広告は美術だという意識があり、1970年に「日宣美」(日本宣伝美術会)と言う団体が解散した後にも、Tokyo Art Directors Clubなどの団体がアートディレクターの専門的職能を社会的に確立、推進する目的で設立され活動しています。

社会的に確立、推進する目的という事は平たく言ってしまえば、社会に認められ地位の向上をめざすと言い換えてもいいでしょう。

その他にも社団法人日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)などの団体が、ほぼ同じような目的で存在し、その年に発表された優れた広告表現などを年鑑として一冊の本になって出版されています。

日本のグラフィックデザイナーの多くは・・・全員と言っても良いと思いますが、作った広告がこのような団体から「優れた広告である」とお墨付きをもらう事を一つの目標として、イイ広告とはと日々考え向上心を持って制作していました。

このような目的が背景にあったからでしょうか「広告は文化である」といった風潮があり、今でも確かにそんな一面も残っています。

マスメディアに登場する広告とは、企業がメディアの媒体を買い取り、そのスペースを企業が発信したい情報を流すと言った、一方通行のコミュニケーションで、コンシュマーが望んでいない情報もそのまま流されるモノです。

だからと言いましょうか、見て不快なモノは購買行動に繋がらない事から、良いイメージを持ってもらうために、美術としても通るクォリティーでさまざまな表現を駆使して制作していました。



そんな業界団体から度々お墨付きを頂くデザイナーも登場し、一緒に作り上げるコピーライターやカメラマン、イラストレーターなどさまざまな横文字職業も紹介され、広告のトレンドのようなモノも出てきたりしました。

グラフィックデザインの仕事は、広告でポスターなどを作るだけではなく、会社案内や商品カタログ、チラシやDMと言った販促用のツール制作にも携わり、企業と社会のコミュニケーションの最前線にいて、沢山のデザイナーが沢山の仕事をこなしていました。

しかし、PCが一人一台が当たり前になり、ソフトウェアの使い勝手も専門スキルをあまり要求しなくなった事で、コモディティー化が進み、誰でもが原稿を制作出来るようになりました。

インターネットの発展により、マスメディアと言われていた新聞や雑誌などが衰退し、デザインを必要とする媒体自体が減ってきました。

そんな中でも従前通りに美術的完成度を求められる仕事が皆無になったかというと、総量こそ少なくなりましたが、いまだに多くのクライアントから求められています。

仕事が残っているとは言えグラフィックデザインの仕事の総量が減ってきている事には変わり有りませんし、コモディティー化で誰もがデザインに参画出来る状態になっており、その結果高度な専門知識を必要としていた質の高い表現は減り、次から次へと大量に消費されるような作品が増えたと感じるのは私だけでしょうか。

元々グラフィックデザインは、クライアント企業が社会とのコミュニケーションを目的に、手段として広告や販促用ツールを作っていたわけで、媒体がさまざまに変化しても「買って欲しい」「愛して欲しい」といった目的は変わりません。

これから先グラフィックデザイナーに求められるものは、今まで求められていた美術的センスも必要とされていますが、マーケティングや各メディアに対するリテラシーを持つ事も要求されていると感じます。




Designerプロとアマチュアの境界

PCの普及に伴うソフトウェアが普遍性を併せ持つようになってから、コモディティ化が速いスピードで進んできています。デザインのトレーニングを受けなくても、レイアウトする事が好きで、PCとソフトを使いこなすスキルを持てば、誰でもデザイナーになる事が出来る時代でもあります。

数年前まではプロとアマの境界はハッキリと、しかもかなり高い位置にあり、例えばグラフィックデザインでしたら印刷の原理から製版の仕方、文字の組み方から版下の作り方まで、そのスキルの一つが欠けるだけで、仕上がりに大きな差が出てしまいました。一つの物を作り上げるのに必要なスキルは基本的には現在も変わりはありませんが、OfficeなどのビジネスソフトではなくIllustratorなどのDTPソフトを使えば、その差も最小限に留める事が出来ます。

現在はWeb上にさまざまなコミュニティーが存在し、デザイナーが集まるコミュニティーには「デザイン募集」「ロゴマーク募集」などの書き込みも多く見受けられ、仕事の流れも簡単な物だったら今までのような代理店や制作会社を通した流れから、クライアントとデザイナーがダイレクトに繋がって簡単に依頼出来、しかも今までと比べると非常に安い金額で済む業務と、「ブランディング」や「マーケティング」などのコンセプトワークまでを含めた、きめ細やかな作業を必要とする業務へと、2極化へ変化してきたように感じます。

古くからこの仕事をしてきた私としては、クライアントとクリエイターのコミュニケーションを持たずに制作し、お手軽なポケットマネーみたいな安い金額で作れ、飽きてしまえばまた新しい人に新しい物を頼むと言った、消費されるデザインという物に違和感を感じますし、ブランディングと言った観点から判断すると、クライアントにとってマイナスの部分もあると感じます。

確かに仕事を見る上では、プロとアマチュアの仕事かは判断しにくくなって来ており、時代も手軽に提供出来る環境を必要としていて境界線も非常に曖昧です。

それではプロとアマチュアの境界とは何なんでしょうか、クライアントから制作を依頼され、その対価を頂く事がプロとアマチュアの境界なのでしょうか、それともビジュアルやコピーの大きさや位置について、コンセプトから導き出されたプライオリティーであると説明できることが境界なのでしょうか。

その境界の解釈について100人いれば100通りの考え方があると思いますが、私は「限られた条件の中でも最高の結果を出せるかどうか」ではないかと考えます。整った条件の中で制作するのは誰でも(多分)出来る事です。しかし時間や金額の条件が限られた場合でも、クライアントの求める物をキチンと制作できることがそのプロとアマチュアの境界と考えます。

そのためにクライアントとクリエイターはメールや電話だけではなく、実際に会ってコミュニケーションを取るなど、お互いが信頼出来る関係を構築する事は必要条件だと考えます。




あり得ない風景を見慣れてしまったのか

数年前までの新聞広告や駅貼りのポスターのメインビジュアルは、写真一つ取っても空間としての空きや、モデルの表情一つにとっても、カメラマンやデザイナーの気迫を感じる作品が多かったように感じる。

今のポスターなどの広告は作品と考えてはいないのか、ただの消費される情報でしかないのか、心にフックとなる記憶に残る広告が少ないのが残念ではある。

人間の思う通りにポーズを付け撮影出来ない動物や昆虫などは、イラストやキャラクターとしてビジュアルとして登場していたが、今では3DやCGで思うままにポーズを取れるし、どんな荒唐無稽なシュチエーションでもビジュアルが作れるしムービーにもなる。

しかもロケの現場に行っても天候に左右されず、光の具合も思うがまま、撮影のためのお天気待ちしていた頃と比べれば効率は驚くほど高いですね。



ブリジストン・レグノ

例えば写真にある数年前のブリジストン・レグノのポスターだが、友人のADの作品で制作の裏話も聞いた。ローマの街一区画を撮影用にキレイに掃除し、路上の車を全部どけ、撮影用に道路に水を撒き、建物に照明を入れてもらうなど一つの街を買い取るくらいの金と時間と労力が掛かった作品だが、商品コンセプトの洗練された都市と静粛性がワンビジュアルで表現された良い写真であり広告だと思う。

現在ではその頃に作った大がかりで金食い虫だったビジュアル作成の反動なのか、有り物のレンタル画像を使ったものや、見る者をねじ伏せるようなカメラマンの拘りのような、力強いビジュアルは見あたらない。

しかしコンシュマーと言われる人たちに、毎食毎食ファミレスやコンビニ弁当のような、そこそこ美味しくいつでも食べられ便利でお手軽な広告ばかりで飽きられないのだろうか。

いつも食べるのは牛丼でもファーストフードでも、ナショナルチェーンが作る効率的に量産された食事でも、たまには丁寧に作られた、旬の食材を使った心に残る食事をしたいと考えるのが人情ではないだろうか。

多くの広告を出稿する企業は、次年度の年間予算を組む時に広告・PR計画など立案するのだろうが、低予算で見た瞬間に忘れ去られる広告ばかりではなく、中には見る者の心にグサリと刺さる、くさびのような強い表現のビジュアルを入れるようお願いしたい。

制作費は効率良くは作れないだろうから、チェーン店化したお店で食べるよりも多少割高ではあると思うが、たまに食べるととても美味しく感じられると思いますよ。




Graphic Designerの未来は?:2

職業グラフィック・デザイナーとして生息する場所は広告代理店の制作部や、デザインプロダクション、独立したデザイン事務所など、それを専門とする企業に集まり仕事をしています。

このような専門領域に特化した職業で区切られた企業は、職人などが集まるギルドなどの専門知識を持った集団で、機材や材料などを集中させる事で作業効率を上げる事が出来ました。数年前までは版下を作る技術、写植を指定し文字を組む技術、など沢山の専門技術の知識が必要とされていました。

しかしコモディティー化が進んだ現在は専門知識がなくてもPCのスキルさえあれば、専門的な知識を持つ者から教わらなくてもキーボードさえ打てれば印刷原稿を作る事が出来ます。

この事から専門職業・職域で集まって作業する事で作業効率を上げるとは言えなくなってきました。

必要な時に必要なだけ必要な場所に。On Demandの考え方ですね、グラフィックデザイナーも代理店やプロダクションなど、規模も大きく多くのデザイナーがいる企業では、瞬発力の必要な規模の大きや実験的な仕事、また多ページを一度に作り上げる仕事ではフォーマットを作るマスターデザイナーと、フォーマットに合わせ写真や文字を入れ込むオペレーターが居れば済んでしまう事になりそうです。ってもうなっているのかな?。

年に数度原稿を作るような規模の企業では、外注に出す仕事とスキルを持った派遣社員が社内で内製する仕事の2つに別れるのではないでしょうか、小さな個人事務所のようなデザイン事務所(ウチなんかもそうですが)は、数少ない「外注に出す仕事」を取るために専門的な営業力が必要になるでしょう。

デザイナーという職業は以前のようにカタカナ職業としてもて囃される、流行のような職業ではありません。デザインとは何を指す言葉なのでしょうか、一言で言ってしまえば「目的を持つ物の形態を、機能や生産工程などを考えて構想すること」です。

元々グラフィックデザイナーは、印刷物や平面装飾物を用いて社会とコミュニケーションする事を目的としています。コモディティー化が進んで起きた事とは、専門的な知識をPCに代行させる事で、普遍化させ隣の職域との垣根を無くす事でもあります。

平面グラフィックの枠をなくし、コミュニケーションという目的の手段として映像を使ったり、Webを使ったりして構想することが求められてきているのではないでしょうか。

同じようにグラフィックデザイナーと仕事を行うクリエイティブディレクターやアートディレクターは、マーケティングやブランディングからの視点も踏まえた、企業戦略まで突っこんだ答えを求められてきているのではないかと感じます。

社会環境がドラスティックに変化する中、職域を表していた言葉も変化してきていますね、グラフィックデザイナー・Webデザイナー・映像デザイナー達は「コミュニケーションデザイナー」と言われるようになるような気がします。




広報物のフレームワークは重要ですよ

企業においての広報物は、ステークホルダーに対して企業を紹介し、認知してもらう事が初歩的な意味だと思います。広報物と一言で言ってしまっても製品の広告物やパンフレット、会社案内やホームページなどは目的も理解しやすく、何を意図として伝えるのかと目的も整理しやすいのですが、PR誌や社内報など定期的に情報を伝える物に関しては、だんだんと意味が曖昧になってくるのか、それとも作っていく内に意味が見えてくると思って作っているのか、作る事への目的もなしに試行錯誤ばかりするのは、目的地も決めずに街中をただフラフラと歩き回るように、ただ疲れて消耗するだけです。

具体的に言うと、対象となるステークホルダーに対して「何をどの様に伝え、感じて欲しいのか」と言った、思考的な枠組みが不完全なまま制作すると、目的が達成出来ないばかりか、制作費や印刷代など無駄な出費になってしまいます。

若い広報担当者のOJTとして、スキルアップを求め制作するといった事もあるでしょうが、トレーニングにしても何に対してのトレーニングなのか、意思決定のためのコンセンサスづくりならば、いくつかの方向性に対してのメリットやデメリット、リスクと言った物をロジカルな枠組みとして構成出来るのか、ただ突っ走るだけでは担当者のスキルアップなど求めようもなく、逆にいい加減な仕事しかできなくなってしまう社員を増やしてしまうだけです。

広報と言う仕事は企業の事をステークホルダーに伝え、深く理解してもらうと共に、ステークホルダーの考えを知り、理解する事で、企業の永続的な発展に繋げるため、マネージメントして行くために必要かつ重要な活動です。

最近発行する印刷物のレイアウトなど、頻繁に変化する、見た感じが毎回違う、など統一したイメージが感じられなくなったら、一度フレームワークはどうなっているのか疑ってみるべきです。

誰もがデジカメで撮影した写真も、キーボードで打ち込んだテキストも原稿として使えますし、アドビのイラストレーターのソフトがあれば印刷原稿さえ出来ます、でもただその場所に行ってそのままの写真を撮るだけよりも、写る背景が整理されているかを気にし、じゃまになるゴミや雑然とした荷物を片付け、掲示物を整理するなど見る人の事を考えて撮影していますか。

言いたい事、伝えたい事はコレとコレだからと、冗長な文章をダラダラと続けていませんか、箇条書きにする、表やグラフを添付するなど、見る人が見やすい原稿になっていますか。

制作側の自己満足だけで果たして相手に伝わるのか。

一度部内のグループミーティングなどで意見を出し合い、伝えたい事が伝わる構成になっているのか成績を付けるように評価し、求める物が出来ていない時は何をどう変えて行けばいいのか、写真やテキストなど各パーツのクォリティを上げるのか、デザインや色遣いの切り口を変えるのか、誰が責任を持って進めるのかを具体的に決めていかないとフレームワークは作れません。

社内スタッフで出来ないのだったら、外部の力を借りるのもひとつの手です、目的もなく制作費をただ垂れ流すよりも建設的ですよ。




コミュニケーションツールとして成功する方法

一言でコミュニケーションツールと言っても、対外的なステークホルダーに向けたパンフレットから、投資家に向けたIR情報、コンシュマーに向けた広告やパンフレット、社内で働くスタッフ同士のコミュニケーションを目的とした社内報など、印刷媒体から放送、Web媒体などあらゆる媒体を使いコミュニケーションされていますが、あなたの伝えたいと考えている物は相手の方に伝わっているでしょうか。

Web媒体でしたら、大まかな製品紹介ページから興味を持つ人だけが見に行けばいい、情報を深く掘り下げたページを附加する事は、費用的にもわずかな金額で済んでしまうでしょうが、放送媒体や印刷媒体などでは附加する事でかかる費用が大きく左右されてしまいます。

費用が掛かってしまうという事もそうなのですが、人間は情報の中でも特に文字情報については、自分の求めていない情報はノイズとして判断し、文字や文章、特に漢字ばかりで表現された文章を理解しようとしません。もちろん様々なステークホルダーに対して“伝えたい”と考え制作するのでしょうが、ステークホルダーが興味を持つ分野や項目を見間違えると、読んでもらえなかったり、反対に物足りなく感じたりと、情報を伝える道具として成立しなくなってしまいます。

一番陥りやすい失敗は「出来るだけ正確に伝えないと」とか「これほど魅力ある製品を伝えるために、様々な切り口で表現した方が」などと、情報を詰め込みすぎた結果デザイン的にも整理出来ずに、読みにくい物になってしまう事です。

相手に伝えるためのツールを作るために、まず一番力を入れて決めなければいけないのは情報を伝えたい人の人物像をしっかりと描く事です。

もちろんプロのディレクターと呼ばれる人たちは、ターゲットとするステークホルダーの最大公約数的な人物像を頭に入れ、何を、どの様に伝えるのが合理的で効率がよいかのフレームワークを組み、それに沿った形でビジュアルを決め、文章を考えるなどの仕事を進めます。

そのターゲットの人たちは写真やイラストを多用した方が理解されやすいのか、象徴的なインパクトのある写真1枚で表現すべきか、キチンと起承転結で理解出来るように、ストーリー仕立てが良いのか、ターゲットの人たちの育ってきた環境や、年齢による文化的な背景などでも変わってくるでしょう。

そんなターゲットのイメージが出来上がったら、自分(企業)との比較をし、ターゲットの人物像との関わり方を考えます。ターゲットに対し自分はオピニオンの立場なのか、それとも同じ土俵でみんなで盛り上げていこうと考えているのか。

企業の独りよがりな情報伝達では“相手に伝える”という、ツールとしての機能に達していません。相手の人物像をしっかりと把握し、受け入れてもらえるように考え実践する事で始めて「コミュニケーションツール」として形をなすのです。読みにくい物はそれだけで読んでもらえないと考えるべきで、文字で言えば大きさから行間、文字同士の詰まり具合などでも読みやすい、読みにくいは変わってきます。

先日のエントリー「広報物のフレームワークは重要ですよ」でも書き込みましたが、成功するための王道として、企業側ではどのターゲットに対して何を伝えるのかといったフレームワークをしっかりと決めて企画し、読みやすくするためのテクニックを持ったプロに頼むのが一番でしょう。

二回続けて「フレームワーク」の重要性を書きましたが、最近回ってくる仕事がこのフレームワークの詰めが甘く、代理店を通してクライアントにもキチンと話をしないと、広報戦略の一つのツールと言う目的から外れてくると何度も言っているのですが、営業が若い人で重要性を理解していないのか、これ以上自分の仕事を増やしたくないと考えているのか解りませんが、半年が過ぎようとしても改善される気配は無し。

出来たばかりの若い会社も良いけれど、年寄りは年寄りなりにフレームワークを合理的に進めていける力を持っていますからね、制作しているコミュニケーションツールが目的を果たしていないと考えられるようでしたら、年寄りにも声を過開けてください。(笑)




こぢんまりとキレイに収まって。

以前のエントリーにも書いた事だが、最近新聞やテレビCMで心に残る広告がない。古き良き時代を思い出して「あの頃は良かった」などと愚痴りたいわけではない。その昔学生だった頃はグラフィックデザインは芸術作品とどう違うのか、デザイナーは芸術家なのかアーティストなのか。など学生らしい青臭い議論をした事もある。

確かにデザインという物は対象に情報を伝える事が目的であるから、沢山ある情報の中から伝えるべき必要な情報を整理し、限られた紙面の中にレイアウト出来ればそれがデザインである。企業戦略の手段とすれば、マーケティングから導き出されるビジュアルとコピーを使って表現する事は、非常に理にかなっており、誰からも文句の付け所はない。

しかしそのマーケティングから導き出されたモノは、多くの人がそれを望んでいると言う最大公約数的な数値としての評価であり、想定内のビジュアルで、コピーである。人間の心にある強く残る思い出は、けして普遍的な日常よりも、非日常的な苦しかったり悲しかったりした事の方が、後になって良く覚えていたりする。

対象のマーケットが望んでいるであろう表現をそのままストレートに出すのではなく、期待を一歩、イヤ半歩くらい先に行くような、期待を少し裏切る冒険を感じさせる表現の方が、見てくれる人たちの記憶にくさびを打ってくれるのではないだろうか。

正直言ってコーポレートガバナンスやマーケティングを理由に、自分が余り高く飛ばないように自主規制し、差別化と言いながら他社と大きく表現を変えずに、横並びの表現で満足している事はないか。何だか手段のためにモノを作っているように感じる、企業の考える理念を元にそれを実現するために目的が作られ、目的をかなえるための手段として広告や広報物があるのではないのか。

最近のWebを含め様々なメディアを使った広報物の中で、この「実現するための目的(フレームワーク)」が見えている企業は、私が思い出す限りファーストリテイリング社(UNIQLO)ぐらいしか頭に思い浮かばない。

確かに景気や社会情勢がジェットコースターにでも乗るように激しく動く中で、余り思い切った冒険は出来ないのかもしれないが、100年に一度の危機を 100年に一度のチャンスとして、様々な事にチャレンジする企業も出てきている。そんなチャレンジしている姿を周りの広報物に埋もれない、記憶に残る広報物が出来るように、リーダーはフレームワークを構築しなければいけない。

記憶に残る広報物をを生み出すのはマーケティングのコンセンサスではなく、こう表現したいというリーダーのフレームワークや信念であり、その表現が正しいかどうかは、事後的に市場で実験するしかない。他に比べ一歩前に出るという事は、整理し、キレイに見せるといった技術やテクニックではなく、心を動かすような美しさを持つアートに近いモノだと思う。




サービス業としてのデザイナー

バブルの頃などはコピーライターが人気の職業でもてはやされたこともあり、同じ広告の制作という切り口からか、デザイナーもカタカナ職業としてもてはやされた時期がありました。でも平たく考えると、デザイナーも紙面の構成を考える一つのサービス業。

今でもそうですが、見てくれる人たちにどれだけ共感してもらえるか、ビジュアルの作り込みや完成度に強いこだわりを持って制作していました。でも以前まではCGや3Dなんて有りませんでしたから、イラストに凝ったり、ミニチュアを作ったりと、手間もお金もかかる物でしたが、今はデスクトップのPCと、ソフトを使いこなすスキルさえあれば、どんな荒唐無稽なビジュアルだって作り出せちゃいます。

デザイナーの作り出す制作物の完成度やクォリティーの高さは、そのまま自分をアピールするツールになり、それを見たクライアントや代理店から仕事の依頼が来ていましたが、今そのような形で仕事を取っている事務所は一握りだけで、多くのデザイン事務所は涸れてしまった川の流れを見、財布のヒモを堅く締め、雨が降るのを祈っているかのようです。


なんだか昔は街に沢山あった喫茶店の辿った道に似ています。

以前は若者文化の発信地的な扱いで、一日に何度も休憩や打ち合わせで利用し、結構個性的なランチを出してくれたり、コーヒーの専門店として特徴を上手く出したりと、一つの街でも色々なタイプの喫茶店が覇を競っていました。

ネルドリップで入れたコーヒーや、水出しコーヒー、コロンビアやグアテマラというような産地別のストレートコーヒーなど、こだわりと特徴を出していけば、高い家賃を払う一等地でもちゃんと営業できていました。でも今同じような形でお店をやるには、家賃や従業員の給料などの固定費を極力下げ、自宅を改造したお店を家族で切り盛りするような喫茶店しか残っていません。

コーヒーを飲みたければ画一的ですが、決まった条件ならば同じ味を出すことが出来る機械で、決められたマニュアル通りの入れ方をした、比較的な安価なコーヒースタンドや、ハンバーグショップが出すコーヒーで十分なのでしょう。


デザイン事務所も同じように、制作物の飛び抜けたクォリティーよりも、どちらかと言うと誰もが安心できる普遍的なクォリティーで、誰がどのようにして作ったかよりも、アルバイトでも誰でもかまわないが、そこそこのクォリティーを比較的安価で提供してくれるデザイン事務所しか、残っていけないのではないでしょうかね。

涸れた川はもう元のように水は流れることはないでしょう、水の流れは変わってしまったのです。

やれやれ、何か新しいことを始めないとだめだな。やっぱり。




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