RISE weblog

RISE Productionアートディレクターの佐藤です、仕事上で感じた事からプライベートな事まで、こちらのブログに書いていこうと思います。

広報実務 Part. 2 制作のプロとして

前回の続きですが、お互いの頭に終点のイメージが見えないものだから、出てくる発想はたたき台としてとりあえずプランが見たい。だ。

目的をヒヤリングすれば、訓練されたクリエーターだったら何をどう訴求ポイントに設定すればいいかがわかるので、たたき台としてのプランは出来るかもしれない。しかし、訓練されたクリエーターなんてものは大抵クリエイティブディレクターとか、アートディレクターとかの肩書がついていて、時間とお金が有る時はじっくりと制作もできるでしょうが、思いつきで制作物を作る時なんて体外両方共無いことが多いいから、┐(´∀`)┌ヤレヤレ、どうすんだよコレ!になるわけです。

こうなると製作依頼した方は、思ったものが出来てこなかった。手を動かして制作した側は、忙しく働いた上になんでこんなにギャラが安いんだ。と、両サイドに不満が残りますが、間に入ってマネージメントした側は、評価が伝わらなければ、次もまた同じことを繰り返し、現場を混乱させておしまい。が、本人が自覚するまで続くのです。


それでは、この先彼らはどうしたら良いのでしょうか?。
気にしなけりゃ、そのまま5年後くらいには、及第点といえるような仕事ができるようになるかもしれませんけど、すでにきちんと出来ている会社(ライバルだったりして)は、どんどん先に進んでしまい、できるようになった頃にはすでに勝敗が決まっているかもしれませんよ?。

もう、勉強するしか無いんですけどね、身も蓋もないと言ったらそれまでですけど、基本的な所で、●誰に対して。●何を。●どんなふうに伝えるか?。この3つをいつも頭に入れて考えながら仕事をすることですね。一番手っ取り早いのはスキルを持った人に、スタッフの教育目的を伝えた上、継続的に仕事を依頼するか、社のスタッフとして教育を目的に活動してもらうのが、その組織のトーン&マナーに沿った形に対応できるのでいいでしょうね。

DTPができるまでは、印刷物って企画して、コピー原稿作って、写真やイラスト作って、版下作って印刷入稿して、って専門職に依頼して作る、そりゃーめんどくさいものでしたけど、ソフトを使えるスキルさえあれば、明日からだれでもグラフィックデザイナーですから、料理人というプロが作る料理より、コンビニの棚に並んだ弁当でいいやと選んだ結果なんでしょうけどね。

マーケティングとか媒体とかデザインの質などは、OJTで仕事を進めていくうちに自然に身につきますよ。自分のスキルを上げていかないとただの御用聞き「コンビニ行ってお弁と買ってきて」だけのパシリでおしまい。

忙しくて仕事の波に飲まれていても、少し立ち止まって「これでいいのだろうか?」と自分の仕事を見つめて、検証してみるのも必要だね。

広報実務 Part. 1 制作のプロとして

最近仕事をしていて感じたことが在る。

私らが広告代理店の皆さんと一緒にお仕事していた2〜30年ほど前、クライアントと制作(クリエイティブ・デザイナー)との間で広報物の目指す方向を定め、制作担当者にそのベクトルを指示してくれる営業、英文の肩書でアカウント・エクゼクティブと言われたプロとしての自覚を持ったマネージャーが居なくなったな、と感じる。

なぜそのように感じるかというと、仕事の打ち合わせに行くのだが、広報担当者の制作依頼者へのヒアリングが甘く、作業の出戻りが非常に多い。

ちなみにその仕事の環境を説明すると、私は印刷物に関するアートディレクションとデザインの制作を請け負っている。クライアントの窓口は広報担当部署の人間で、そこの法人の印刷メディア・Webメディアを含め、クライアント側の立場を代弁する部署の人間である。

その部署はできてまだ日は浅いが、トップは元大手広告代理店でイベントを仕切る部署に居た人で、実働のスタッフは他に二人ばかりおり、事務部門を充実させるために中途採用されたスタッフだ。仕事の内容としては印刷物・Web共に、そこの法人全体の広報物ばかりでなく、単独の部署でも独自の広報物を作っている。外部から見る限り、年間扱う制作費は2,000万円程度といったところだろうか?。

広報物の殆どは商品を売りたいとか、お客を呼びたいとか、イメージを上げたいとか何かしらの目的を持ち、その手段として制作物が存在する。手段としての戦略に乗るからこそ、表現を考えるクリエーターの頭のなかはかなりロジカルなものだ。プロとして、そんな思考回路も一朝一夕に出来上がるものではなく、専門職として仕事をしていても、一人前と認められるまでに時間はそこそこ掛かる。

そんなロジックを順序立てて口で説明できるようになるのに、訓練した者が何年もかけて修得するものを、どんなものを作るのか、広報担当者が制作依頼者にお伺いを立てても、答えなんか返ってくるわけがない。

営業用のツールとして、チラシを作りたい。DMが欲しい、パンフレットが必要だ。と言われれば、どんな人に対してどのようなアプローチと仕掛けの広報物なのか、作りたいからその人に聞きに行くけど、作りたいからその人の頭に確固とした広報物のイメージが有るなんて考える事自体、制作のマネージメントをする担当者の怠慢だ。

知って行動せざるは罪である

プレゼン_s.jpg

タイトルはソフトバンクの孫社長が、「エネルギー政策の転換に向けて」と
私財10億円を投げ打ち、自然エネルギー財団を立ち上げた時の言葉です。


孫正義:2011年をエネルギー政策転換の年と位置付け、個人としての寄付10億円で自然エネルギー財団を設立いたします。10億で足りないことはわかっていますが、これはスタートの原資として、世界100名のトップ科学者との意見交換の場を作る。議論のきっかけを作るための財団。シンクタンクのようなもの。自然エネルギー発電にはいろいろある。どれがいいのかはこれから勉強して行く。太陽光発電だが、電気使用のピークは日中。電力の消費量が最も多いときに太陽は出ている。そこに当ててはどうか? 太陽光発電を否定する意見の多くは、曇りや雨のとき、発電出来ないというもの。しかし、天気の悪いときには、火力発電を使えばいい。バッファとして考えている。

・・・なんか、昔偉いお金持ちの財界人が、地球の将来を心配して世界中の知識を集め、全世界賢人会議と言われるシンクタンクを作った。名前はそう「ローマクラブ」。

イタリア・オリベッテイ社の会長アウレリオ・ペッチェイ氏が私財を投じ、地球の将来を見据えたシンクタンクが必要と1968年にローマで初の会合があったことから「ローマクラブ」と言われているけれど、4年後の1972年デニス・メドウズらによる「成長の限界」が出版され、成長・成長とイケイケムードの世界に冷水を浴びせた。

今回の孫社長がやろうとしている事が、アウレリオ・ペッチェイ氏とダブって見える。しかし今現在、国や官僚とメーカーの創り上げた原子力を元にしたエネルギー政策は非常に強固と言われていて、今回の福島の事故の後でも白紙に戻すことは非常に難しいように感じる。

官僚:忘れやすい日本人だからさ、10年くらい大人しくしていれば、何事も無く新しい原発も作れるからさ、少しだけ我慢してよ。と何も手を加えずに先延ばしになった時間だけを潰して終わりそうな気もする。

でもこの時期にドンキホーテのようにルシナンテに乗り、「知って行動せざるは罪である」と、風車に立ち向かおうとする孫社長の行動は尊敬できる。

たしかにそんな事やる前に、SBのユーザビリティを何とかしろよと言いたくなる人も居るだろうけど、すまないが私はユーザーではないので他人事である。

ペッチェイ氏の作った「ローマクラブ」と、孫さんが立ち上げた「自然エネルギー財団」とでは決定的に違うものがある。「ローマクラブ」は現場の消費するだけの生活を続けていくと人類は滅亡すると警鐘を鳴らすだけだったが、「自然エネルギー財団」はビジネスとして成りうるかを検証し、なると判れば資金調達して事業に出来る。記者会見の質問でも、ボーダフォンを買った金額より、東京電力と東北電力を合わせた金額のほうが安いとのことだから、誰も動かないのなら孫氏自ら動く可能性もある。

と、どうなるかは別として、一つのビジネスとして成り立つものか、大いに協議し、何かしらのブレークスルーをもぎ取ってもらいたいものです。自然エネルギー財団という名前も、きっかけとなった原発事故から「フクシマクラブ」なんてどうだろうか。

しかし声は届かないでしょうが一つだけ言わせていただければ、出る釘は打たれる。ローマクラブを立ち上げたペッチェイ氏はその後、1984年3月、視察で訪れたアラブ首長国連邦でヘリコプター事故により他界している。噂ではあるが、マフィアによって消されたという話があることだけ付け加えておきます。


輪の中で一部が欠けたら・・・

輪の中でというタイトルにしましたが、日本という国では、輪=和なのかもしれません。

日本は今までも大きな災害にあっても復興し、前に進んできましたが、今回の震災では地震の影響で2種類の災害にあったように感じます。一つは地震による被害と、それが引き金になった津波による被害。もう一つは福島第一原子力発電所の津波による冷却システム不全から来る原子炉の炉心融解事故。

地震と津波による被害も今日の段階で死者と行方不明者合わせ2万7500人と、とても多くの方々が犠牲になりましたが、福島第一原子力発電所の事故以外でも、多くの発電所が被災し、発電することができなくなったことから首都圏でも計画停電を行うなど、震災以前の生活と比べ、市民生活も変えざるを得なくなってきたことは間違いありません。

震災から3週間を過ぎた現在も、行方不明者を懸命に捜索が続けられるなど、まだまだ被害全体の把握や、これからの復興に対して考えることすら不謹慎に思えるほど広い範囲に被害がありましたが、現実的に考えると電力不足から来る日本経済の先行きの不安。

大震災前でも、グローバリゼーションという世界に向き合うマーケティングに、日本の将来に向けたビジョンを見通すことが出来なかったのに、この災害に対応するためにさらに見通すことが出来なくなるのでは?という不安。

経済ってものを全く知らない者がこんなことを言うのはどうかと思いますが、社会の仕組みってバランスで成り立っていて、電力の供給はその社会の根幹に関わるところなのに、原発の事故で日本の電力供給の23%を担っている原子力発電が「やっぱり原発は危険だから」と操業を認められずに、長い時間電力の供給不足になった結果、円滑な作業ができなくなるとバランスの一端が崩れ、経済という輪の一部がかけた状態になってもらいたくないと切に希望します。

当然これを期にリスクも少なく、温暖化ガスの排出も少ない太陽光発電や風力発電へのスイッチの議論も盛んになると思いますが、何となく私の感じるクリーンエネルギーの理想とする状態は、郊外に大規模な発電所を作って各家庭や事業所に配電するのではなく、使う地域などで発電したものをその地域で消費するという考え方。

クリーンエネルギー先進国のドイツは、現在では16%がクリーンエネルギーでまかなっており、その4割は風力発電だという。確かにCo2の排出量も少ないし、国民のコンセンサスも取りやすいだろうけど、現在の電気行政に変わって新しいシステムに電車を乗り換えるように直ぐには乗り換えることが出来ないと思います。

やはりこの国の将来を見据えた形で計画を中・長期的に変更するのは構わないと思うけど、現在の事故から短絡的な主観的感覚で原子力行政を否定するのではなく、現在でもしぼんでしまいそうな経済状況を維持しつつ、一日も早く被災地が復興できるような判断をお願いしたいところです。




ボチボチと・・・。

行方不明者が未だに1万人を越える今回の災害。
家族や友人の安否を気遣う方には、早くいい知らせが届くよう祈ります。

この数日は首都圏でも計画停電が行われず、
震災のこともだんだんと遠くの話になっていきそうにも感じられ、
ニュースも被災地のことを伝えるよりも、原発事故を伝えるのに大きな時間を割き、
こうやってだんだんと日常に戻り、風化していくのかなぁ?と、
感じてはいますが、震災後から読み返している
「神の子どもたちはみな踊る」という短編小説集。

村上春樹が、阪神淡路大震災で感じたことを6編の短編で表現した1冊。

その本の冒頭に
〈ラジオのニュース〉米軍も多大の戦死者を出しましたが、
ヴェトコン側も115人戦死しました。
女「無名って恐ろしいわね」
男「なんだって?」
女「ゲリラが115名戦士ということだけでは何もわからないわ。
  一人ひとりのことは何もわからないままよ。
  妻や子どもがいたのか?
  芝居より映画のほうが好きだったか?
  まるでわからない。
  ただ115人戦死というだけ」
    ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』

今回の震災で失くなった方は今日の時点で、
死者は1万1620人、行方不明者は1万6464人、合わせて2万8084人。
この人達一人ひとりにも家族がいて、好きなこと、楽しいこと、夢なんかを
一瞬で奪っていったんだろうな、と。
ただ数字だけ並べられるとネジの数を数えただけなようにも聞こえるし、
あんなに大変だったということが伝わってこない。

やっぱり風化させちゃいかんよな、
この国を間違った方に進めちゃったらこの亡くなった人達から怒られそうだな、
自分一人の力なんてホント僅かなものだろうけど、
情報を正しく把握し判断し、結果を出すよう努力します。

と、電車内で読みながら「密かに」決意しました。密かにね。




ブランディング以前にすることしてる?

これほどダイナミックに社会が変わる今だから、一番大切なのはPDCA(プラン・ドゥー・チェック・アクション)サイクルをいつも頭の片隅で意識していることだね。だって昔は蕎麦屋で出されるかけそば一つにしても、自宅じゃ作ること出来なかったけれどさ、今じゃスーパーに行けば麺でもつゆでも棚にいくらでも並んでいるし、カップ麺だって結構満足できるものがコンビニにも置いてある。

でも、具体的に何をしたらいいんだべ? って普通思うよな、頭でっかちの理論ばっかりも結構ですが、うちの会社に、店には何をしなけりゃいけないのよ。

やっぱりB to BでもB to Cでも「顧客が求めていることを阻害しないように」が基本だと思います。商品を買わない、店に来ない言い訳をつくらせない事を目標に、営業や店の方針を決めることが発展につながると信じています。

ひとつの例として、飲食店で最近売上が伸びないどころか下がっている。それじゃあと言う事で、単品の丼や食事だけでなく、夜はアルコールを提供し居酒屋風なメニューで売上アップを目指そう。ツマミや飲み物も工夫して一品の単価を抑え、仕事帰りのサラリーマンたちに愛されるお店にしよう。と考え、料理自体は他店と比べても美味しいと感じるし、提供の仕方などもあまり飾らない、料理中心の自宅で寛ぐ雰囲気づくりがお店としてのアピールポイントとして営業していこうと。

でも、こちらもあまり芳しい成績を残せないどころか、長時間の労働で営業する側にも疲れが出てきている。

お客さんとして、その地域ににいる潜在的な顧客を含め、あまり自宅の料理と変わらない「飾らない料理」で顧客は満足しているのでしょうか。おいしい料理と言ってもスーパーの惣菜コーナーで売っているのを、小鉢に移しただけと感じていたらお客さんは満足してくれているでしょうか。例えて言えばマクドナルドのバリューセットであっても、きちんとした接客用の皿に、できたてのハンバーガーとポテトを美味しそうに盛り付けたら、倍近い値段で提供しても顧客の満足は得られると思えるのですが、いかがでしょうか。

お腹すいたなぁ、仕事も終わったし少しだけお酒も飲んで、食事して、さてとどこの店に行こうか。と考えたときに、あそこのお店は安いし美味しいん「だけれど」、料理の盛りつけが小さな皿に山盛りよそるから、外で食べたってよりも、田舎のばあちゃんちで食べているような感じ。とか、アルバイトの店員で接客が悪くて、座っても注文取りに来ないんだよなぁ。とか、だったら店に行かないで家で食べるか。にならないよう、あそこの店は食べ物は美味いん「だけれど」って、店に行かな言い訳を与えないようPDCAのC(チェック)点を設定してみたらいかがでしょうか。

これはどうゆう顧客に来てもらいたい、というお店のブランディング以前の問題。うまい・安い・早いだけじゃ、それを売りにしているチェーン店にお客さんは行ってしまいますよ。というおはなし。




気がついてよ政治家の先生たち。

ブログやSNSの普及で、様々な立場の人が自分の意見を言える環境が揃ったからなのか、政治や経済に対して関心が高くなっているのか、人気あるブログなどを見ると必ず上位に並んでいる。政治的指向がリフレ派なのかリバタリアンなのか保守なのか、少し前までは右か左か、または鳩か鷹かみたいなカテゴリーでしか分けられず、議論さえされなかった事(有ったのかもしれませんが市民には届いていませんでした)が専門家同士がWeb上で議論され、多くの市民が読み、判断しコメントで意見を言っている。

独裁的に国家運営されていた国が、SNSで声を上げ始めた市民によって次々と倒され、民主化を実現できましたが、日本でも自由民主党から民主党へ政権交代したにもかかわらず、横ばいなのか悪くなっているのかまだわかりませんが、相変わらずの閉塞感を破るため、自分が変えなきゃと真剣に政治を考え始め、Webで参加し始めている人が増えてきた感じがします。

きっかけはやはりTwitterだよなぁ、あの短い文字数だと気安く参加しやすいけど、意見言うためには調べて考えなきゃいけないから知恵が付いちゃって、昔みたいに上から「レール敷いたので、そこを走るように」と言われても、本当にそれが望んだものか検証するようになったと思う。

やっぱり生活に満足していれば、政治なんか誰がやっても変わんないだろうと無関心で居られるものを、これ以上黙って見ていたら何されるかわからないと、寝た子を起こしたようなものでしょうか。誰かが悪い訳ではないので独裁者のような特定の人物に眼が向くわけでもなく、環境がこれだけ変わったんだからシステムも替えましょうよと、誰かがプレゼンテーションしてくれることを望んでいる状態だと思います。

それを一番最初に気がついて、引っ張っていって欲しいと、政治家の先生たちに望むところなんでしょうが、当の先生たちは相も変わらず政治倫理がどうのこうのとか、官僚の言いなりの大臣がどうのこうのとか、人の足をひっぱることばかりで、この先のシステムをどうしたいのかというビジョンがさっぱりありませんね。

今国民が求めているのは、セキュリティやバグを消すバージョンアップではなく、GUIまでも大胆に変えたメジャーバージョンアップだと思います。外交政策や防衛を始め社会保障についても、色々なしがらみがあって、戦後なんとなく継ぎ足し継ぎ足しでやってきたことが綻び始めているんですから、現状の社会に合わせた形でリストラクチャリングしたシステムが必要な時期だと思います。




その考え方も確かにあるけれどさ・・・。

先日、かみさんが所属する職域のちょっとしたセミナーが新橋で行われ、その業界の人事を担当するマネージャークラスの人達が集まって、スムーズな人材確保の為にすべきことを、かみさんはプレゼンターとして講演してきたらしいのですが、その中に新聞社系の広告代理店のプレゼンターの方がいらっしゃり、人材確保のために作るパンフレットなど、見た人にグサリとフックを掛けるために金額的にあまり手を抜かず、キチンんとお金をかけて作らないといけませんよ。と、非常にお金の掛かったサンプルを手渡され、持って帰って来ましたが、一目見て印刷単価が減った分、コンテンツを充実させて売上確保しましょうという戦略なような気がしました。

たしかにね、従来通りに作るとすれば、10年前の制作費と比べれば現在はそのナン分の一になったのやらと、随分と安くなったものだと考えさせられますけど、制作する立場の人間から言わせて頂ければ、そんなギミック満載のパンフレットを作っても、来て欲しいと思っている人にうまくヒットすれば良いけれど、これだけメディアが多様化している現在も、印刷といった一つのメディアにお金をかけて口説きに行ったって、きちんとしたリターンが望めるのか、なんというかおめでたい代理店が未だに有ったのかと思わせてくれました。

現在これだけ持てはやされているソーシャルメディアが万全とは思いません、しかし昔ながらの力と、大きな声で相手を口説きに行ったって共感されなくなってきています。だから前回のブログにも書いたような女優の自然な姿から商品を感じ、共感してもらう戦略のように、誰に対してどのようなメディアでコンタクトを取らなければならないのか、印刷の媒体だけで差別化をアピールし、見た人に共感してもらえるのか。必要な所をすっ飛ばしても、自分の土俵に相手を引き出せればシメタもんと考えているとしたら、コミュニケーションのプロとしての代理店として少し恥ずかしい気がします。

・・・と考えるけれど、これは普通の営利を目的とする企業としたらアタリマエのことなんだろうけれど、社内組織が硬直した公益法人など、上の人間が自分以外は使えない馬鹿ばかり、と思っているような組織だと環境が変わったからといくら説明しても理解しないし、下の人間からプレゼンしても通らないし、と言う古い価値観で仕事が進んでいる組織としては、結局旧来のメディアを使った声の大きな人が相変わらず重宝されている環境だから、こんな代理店も生き長らえる事が出来るんだろうなぁ。

やっぱりこうゆう組織に対してどのように説明し、理解してもらえるかが自分の仕事のためには必要なんだとは思うけれど、そんな組織のTop自らiPadなんかで常日頃遊んでいる人も多いらしいが、NetのRom専でTwitterやfacebookなどでのコミュニケーションには自らは参加せず、実社会のコミュニケーションと別けて考えている人が多いんだろうな。




Webを使っての共感プロモーション

110210.jpg

SONYのデジカメ「サイバーショット」のプロモーションです、以前もデジタルビデオカメラ「ハンディーカム」の「なにげ気ない日常を、かけがえのない思い出に。」のプロモーションが秀逸で以前のブログにも書きましたが、今回の「サイバーショット」のプロモーションの設定は女の子同士で旅に行く「女子旅」。女優の北川景子さんが出演されたプロモーションですが、ディレクターと女優さんと限られた人数で沖縄で撮影された「コンパクトデジカメで動画をとると楽しいよ。」を伝えるためのWebプロモーションですが、本当に少人数の友達同士で行った旅行ように、自然な笑顔がとても素敵に仕上がった映像です。

自宅ではあまりドラマやバラエティ番組を観ないので、この女優さんも名前を聞いてすぐに顔を思い浮かべられる方ではありませんでしたが、いや、笑顔が素敵な女優さんですね。お金の掛かった建込みもないし、凝った演出もないけど、この自然な笑顔が共感を呼ぶんでしょうね。Webと言うメディアをよく知ったプロモーションですね、テレビCMだとこの映像にもう一捻り欲しくなるでしょう、でもそのひと捻りが見る人によっては嘘臭く感じるところだとも思います。

SONYと言う会社は自分のところで作った製品でも、あまり将来性が少ないと判断すると、それを買ってくれたカスタマーのアフターフォローなど考えずに、さっさと撤退してしまう薄情な社風があると感じていますが、この様な共感を得るプロモーションを作らせたらうまいですねぇ。

今はこの様な映像だって誰でもWeb上に無料で公開できるのですから、顧客やコンシュマーとのコミュニケーションを考えるお店などでは、SNSとこの様な共感得る映像を組み合わせることで、ブランディングと顧客の囲い込みが可能だし、誰でもできるんだから迷わずにやるべきだと考えますね。




見慣れているのは見やすいですか?

最近チラシなどで時々見かけるようになった、文字組を紙面の左右ワンブロックで組んじゃう印刷物。写真や表組みに合わせて文字組みも左右1ブロックに組んじゃうんだろうけれど、これが読みにくい。

興味を引かないタイトルなら端から読もうとは思わないのだけれど、たまたま興味のある商品や事柄を説明する文章だから読もうと思うんだけれど、文字を追っていっても何行目を読んでいたのかわからなくなってしまうこともしばしばある。

読みやすい文章を表現するには、文字の大きさもあるけれど、文字組1行の文字数も関係してくるし、行毎の文字と文字との空き、行間も大きく関係してくる。今回感じたような文字の読みにくさの原因ってWordが原因じゃないかと思っている。英語圏のワードプロセッサーソフトとして支持され、業務用のドキュメント制作に使われてきたものを、英語と日本語の組版の違いをあまり考慮せず、文字をアルファベットから日本語に置き換えただけ。

英語は一文字づつではなく、単語として並べてあるので行間をあまり取らなくても、あまり読みにくさは感じないけれど、日本語は句読点や漢字やかながあるけれど、単語ごとに区切っていないので見た目がどうしても単調になりやすい。だから行と行の間を一定の間隔を開け、メリハリをつけてやらないと読みにくいものになってしまうのが日本語の特徴だったのを、技術的なものもあったのかもしれないけれど、その特徴を考慮せずに置き換え、一般に広まってしまったことでその文字組も普遍的なものとして受け入れられるようになってしまったのではないかと思う。

テクニカルな言い方をすれば、雑誌広告でもチラシでもパンフレットでも本文と呼ばれるボディコピーを組むためには、限り有るスペースの中で存在感を消しつつ多くの情報を伝達する目的があるので、大きすぎない文字の大きさ、かつ読みやすい大きさで一つの項目として認知されるようなボリュームと読みやすい行間から、職人的な技を求められると思います。

でも一番大切なのは、その文章が広告であれ、パンフレットであれ、チラシであれ、報告書やプレゼン用のドキュメントであれ、見る人に意図するものを伝えたい、自分の考えを最後まで読み通してもらいたい、そのドキュメントを手にした人が見やすく読みやすいという、自分本位ではなく相手に伝えるという戦略的デザインが必要だということです。




1/28 >>